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小沢一郎は「絶対権力者、権力の亡者、金権政治家、壊し屋」?

全ての全国紙、全ての地上波TVがまったく同じ論調で「祝・脱小沢」とやっていることの不気味さ、不条理さ、この状況をオカシイと思わないのか?日本国民!!(ツイッター投稿より)

多くの政治家の目標は首相になること、その目的を達成した政治家は第一線から去っていく。小泉、麻生、安倍、そして鳩山、新しい菅総理もそうなのだろう。
だが小沢は違うように思う。
小沢一郎は政治思想家。
自身の政治思想を、いつか日本社会が選択する日がくること。自身の政治思想を実現させる為に小沢は行動しているからだ、実現させるまで退かない。
そのことをマスゴミは権力の亡者と報道し、罵倒しているが・・・

小沢一郎の政治思想を日本で実現させるには小沢一郎だけでは不可能であり、次世代の政治家の育成が必要である。長期的な視点が必要である。
21世紀の日本の在るべき姿と歩むべき道筋を構想し、かつその実現を担い得る、志の高い若い人材を発掘、養成する。そのために、衆議院議員小沢一郎が「塾長」として小沢一郎政治塾を開き、人材を育てていこうとしている。
本当の政治家を育てようとしている政治家は他にいるのだろうか?

小泉、麻生、安倍、そして鳩山、新しい菅総理が政治塾を開かなくても、これからの日本を支える人材を育てていこうとしているのだろうか?

かって小沢は構想を現実のものとすべく自民党を立ち割った。金丸信が権勢を振るっていた時期、総理になろうとすればなれた。けれども、なにをするために総理をやるのか、いまなったとしてそれができるのか――という問いを発せずにはおれない。そこに、小沢の小沢たる所以がある。

ぶれない。迎合しない。愛想がない。袂を分かった政治家も少なくない。政治の理想をブルドッグの父佐重喜に、政治の現実はブルドーザーの角栄に学んだ。権力の裏の裏まで知り尽くす最後の政党政治家。

剛腕、リアリスト、壊し屋……多くの異名が授けられている。小沢が永田町を仕切るに長けたプロ政治家であることは疑いない。ただ、それは一面であって、もうひとつ保持してきたのは、日本の政治家には稀有の、〈思想〉を宿す政治家であったことである。そこに彼の政治的パワーの源泉もあった

「戦犯という名は勝者がつけたものだからさておいても、A級戦犯の連中、東条英機や板垣征四郎は岩手県人だけれども、外国からいわれる以前に、彼らを僕は許せない。生きて虜囚の辱めを受けずと教え込んで三百数十万を死なせた張本人じゃないか。靖国に祭られるべき存在じゃない。岸信介にしても戦後は仏を供養して過ごすべき人間です。僕がこんなことをいうとびっくりする人がいるんだが、本心、そう思ってるんだ」

少年期だった昭和20年代、田んぼと畑が続く農村地帯だった。父はあまり東京から帰らず、母、3歳上の姉との暮らしが続いている。

 代議士の子といえばお坊ちゃんを連想するが、着ているものも食物も近所の子と同じ。毎日、泥だらけになって「陣地取り遊び」に興じていた。みちはいわゆる明治の女。男の子は泣くな、いいわけするな、卑怯であるな、と古風な美徳を教え込んだ母だった。

 勉強ができて、相撲やスポーツも得意だったが、ガキ大将でもなければ喧嘩好きでもな い。小・中学の同窓生は「一ちゃん」をそう語る。シャイで、余計なことは口にしない――。そういう原質はいまも引き継いでいる。

青年期から小沢は読書家だった。

 どんな本を読んできましたか、という問いにあがった名を列記すれば、北一輝、ドイッチャー、マルクス、ウェーバー、ドイツ革命・ロシア革命・中国革命に関するもの、ドゴールやチャーチルの回想録……など。後年、好みは歴史物語に移っていった。先頃、鞄に入っていたのは半藤一利の『昭和史』。小沢はインテリゲントな人である。

 先の総選挙で落選したが、小沢チルドレンの一人、樋高剛は世田谷にある小沢宅で十年余、書生をつとめた。仕事のひとつに、塩野七生や司馬遼太郎の新刊本が出るたびに買いに出向くことがあった。夜、酔っ払って帰宅してからも小沢は本を開く人だった。小沢によれば、いまはもう酒が入ると寝てしまうということであるが。

 人はだれも本を自身に引き寄せて読む。小沢から伝わってくるのは、時代の大きな流れ、「興亡史」を読み取る読書である。

先の選挙で落選した民主党前代表代行の藤井裕久は、自民党分裂から民主党合流まで、終始、小沢と歩みを共にした一人である。大蔵省の出身。はじめて「小沢一郎」の名を刻んだのは官僚時代、田中角栄からである。何かの会合で角栄の言を小耳に挟んだ。

「小沢一郎というのはえらくなる。あれはそこらの連中とはモノが違う」

 角栄が小沢を格別に可愛がったことはよく知られている。夭折した長子の再来を小沢に見たからだともいうが、付随的なことだろう。角栄は小沢のもつただならぬ天稟を見抜いていたのだろう。

「オヤジ(角栄)は僕には何も隠さなかった。表も裏も私ごとも一切合財を含めて。いまもいえないことばかりですけれどもね……」

角栄の愛弟子は、角栄的世界からもっとも遠い思想を宿した政治家でもあった。小沢は反面教師としてもオヤジから多くを学んだはずである。

 角栄門下生のなかで、ロッキード裁判をすべて傍聴したのは小沢だけである。その理由については「情です」と小沢はいった。確かであろう。と同時に、裁判の全過程に接するなかで、ひとつの時代と権力の滅びの音色を耳にしていたはずである。

もっともエキサイトしたのは、竹下派・経世会の結成と自民党からの離党であったという。前者は途中から「オヤジとの闘争」となった。情においては忍びない。けれども、利害を調整処理することで済んだ角栄型の戦後政治は終わった。小沢は冷徹に見切ったのである。

 人はだれも相矛盾したものを自身のなかに持っている。小沢側近の一人は、小沢を「アタマは西洋人でカオとハートは土着日本人」と評したが、当たっている。この二つから敷衍して眺めると、小沢の節々の政治判断の多くは解ける。

先頃、藤井は政界引退を決め、まず小沢に告げるために赤坂の事務所に出向いた。「もう側にいて一緒に歩くことはできなくなりました」。そういうと、小沢は涙ぐんでいる。この十数年、藤井は小沢の涙を何度か見ている。

 情に流されて判断を誤ったことはありませんか――という問いに対して、「いくつかあったよ」と小沢は答えた。具体的には口をつぐんだが、小渕内閣時代、自自公結成などを指している。
 今も、角栄待望論を耳にすることがあるが、小沢は明確に否定する。オヤジは戦後のあの時期に求められた政治家であり、いま求められるのは土台を変える変革者であると
情と理の使い分け、ときに明瞭でありときにくもる。そのときどき、「土着日本人」が前に出、また「西洋人」が前に出る。その矛盾のなかで小沢は生きてきた。

かつて小沢側近と呼ばれた人たちの多くが小沢のもとを去っていった。双方に言い分があるが、この点、融通無碍、包み込むような包容力をもった角栄とは対照的である。小沢の、対人関係における多分に不器用な部分に起因するものもあるが、根本的にいえば、思想とは反作用として峻別を併せもつものであって、思想政治家のもつ宿命である。

 いつまでたっても〝丸く〟ならない。なれないのだ。最近も、古くからの自民党の友人にこういわれた。

「一ちゃん、いつまで書生のようなことをいってるんだ」

和子夫人の素顔は、ほとんど知られていない。一体どんな人物なのか。「和子夫人は、“内助の功”という言葉がピッタリの控えめな人です。ポッチャリ体形で、服装は質素。ブランド品を身につけることもありません。鳩山首相の幸夫人とは正反対のタイプですね。小沢邸での新年会でも、厨房を仕切るなど裏方に徹し、表には出てこない。人手が足りないときには料理を運んで来たりもしますが、自分から挨拶することもなく、すぐにいなくなってしまう。後になって“さっきの女性が奥さんだったの?”と驚く議員も多いそうです」(政治評論家・有馬晴海氏)

“お手伝いさん”と間違われることもあるくらい地味な印象の和子夫人だが、実はタイヘンな資産家だ。田中角栄の後援会幹部で、新潟県の大手ゼネコン「福田組」の経営者だった福田正氏の長女。上智大卒の才媛でもある。「英語がペラペラで、ダイアナ妃が来日した時は、通訳なしで話したそうだよ。頭がいいことをひけらかさないし、偉ぶらなくて感じのいい人だよ」



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http://www.ozawa-ichiro.jp/massmedia/contents/appear/2006/ar20060127163706.html

小沢一郎 思想政治家で終わるのか



AERA '06.1.23

ぶれない。迎合しない。愛想がない。袂を分かった政治家も少なくない。政治の理想をブルドッグの佐重喜に、政治の現実はブルドーザーの角栄に学んだ。権力の裏の裏まで知り尽くす最後の政党政治家。「総理にしたい人物」のランキングには必ず名前が挙がる。果たして、在野のまま「思想」に殉じてしまうのか。


小沢一郎が自民党幹事長に就任したのは1989年(平成元年)、海部内閣の下、47歳の日であった。以降の主たる肩書を追えば、新生党代表幹事、新進党党首、自由党党首、民主党代表代行ということになるが、激動続く平成時代、政局のキーマンだった。権力中枢にあって差配を振るったという意味では、竹下内閣での官房副長官時代も含めるべきかもしれない。ともあれこの二十余年、この政治家が永田町の震源であり続けてきた。

 剛腕、リアリスト、壊し屋……多くの異名が授けられている。小沢が永田町を仕切るに長けたプロ政治家であることは疑いない。ただ、それは一面であって、もうひとつ保持してきたのは、日本の政治家には稀有の、〈思想〉を宿す政治家であったことである。そこに彼の政治的パワーの源泉もあったのではないか。

 思想の源にあるものはなにか、どこに由来しているのか。それを解きほぐすことを通して、政治家・小沢一郎の核心に迫ってみたく思う。

勉強も運動も優秀な少年
確かな故郷を持つ政治家
踏みつけられた者の視点

 人の思想は、生来の資質に拠るところが大であるが、さまざまな外部環境が付与されて輪郭が形成されていく。基底部を形づくったのは代議士だった父・佐重喜と母・みち、および故郷・岩手であるように思える。

 岩手県水沢市袋町。通りに面した生家は残っていて、増改築されてはいるが、地元の小沢事務所としていまも使われている。奥行きがあって中庭があるが、ひっそりとしたたたずまいの旧い日本家屋である。中学2年まで、この家で小沢は育っている。

 周辺は、いまは家々が並んでいるが、少年期だった昭和20年代、田んぼと畑が続く農村地帯だった。父はあまり東京から帰らず、母、3歳上の姉との暮らしが続いている。

 代議士の子といえばお坊ちゃんを連想するが、着ているものも食物も近所の子と同じ。毎日、泥だらけになって「陣地取り遊び」に興じていた。みちはいわゆる明治の女。男の子は泣くな、いいわけするな、卑怯であるな、と古風な美徳を教え込んだ母だった。

 勉強ができて、相撲やスポーツも得意だったが、ガキ大将でもなければ喧嘩好きでもな い。小・中学の同窓生は「一ちゃん」をそう語る。シャイで、余計なことは口にしない――。そういう原質はいまも引き継いでいる。

 農業者、酪農家、住職、工務店経営、元学校長……佐重喜の代からの支援者の家々を訪ねた。しばらくは口が重いが、やがて、一つか二つ、私を笑わせてくれるユーモアにおいて共通していた。

 岩手米の銘柄はひとめぼれ。味は新潟のコシヒカリに負けないといわれるが、全国的なブランド力はいまひとつ。「宣伝が下手だからよくは伝わんねぇ。一郎と同じだ。あの無愛想でよく政治家が務まってきたもんだ」というように――。

 岩手を訪れたのは05年11月半ば。山手に行くと、曇天の空からはや冷たいものが降ってきた。東北の冬は長い。貌戸手の指に暮らしがにじみ出た人々。人とその風土にどっしりしたものはある。

 米づくりは人にまかせてはいるが、小沢はいまも4反余りの田を保持している。横須賀を地元とする小泉純一郎に比していえば、重いが、また確かな故郷をもつ政治家である。

 小沢は赤坂のマンションに個人事務所を持っている。机に一枚、写真が立て掛けてあった。原敬。朝敵・岩手南部藩の出身。藩閥政治に抗し、はじめて政党政治の扉を開けた。東京駅で凶刃に斃れたが、もう少し長生きしていれば昭和史は変わっていただろうと言われている。

 中世から明治維新まで、東北の歴史に勝ち戦はほとんどない。小沢とのインタビューのなかで靖国問題が話題に出たとき、踏みつけられた地の側からの視点というものは感じた。

「戦犯という名は勝者がつけたものだからさておいても、A級戦犯の連中、東条英機や板垣征四郎は岩手県人だけれども、外国からいわれる以前に、彼らを僕は許せない。生きて虜囚の辱めを受けずと教え込んで三百数十万を死なせた張本人じゃないか。靖国に祭られるべき存在じゃない。岸信介にしても戦後は仏を供養して過ごすべき人間です。僕がこんなことをいうとびっくりする人がいるんだが、本心、そう思ってるんだ」

父親は立志伝中の人
司法試験準備中に立候補
酔っ払って帰宅後も読書

 水沢の隣町、北上市で呉服店などを営む小笠原直敏は、小沢選挙のすべてにかかわってきた。佐重喜の最後の選挙の際は日大の学生だった。体が弱った佐重喜は雪道を歩けず、車から立会演説会の会場までおぶった。

 佐重喜の渾名は「ブルドッグ」。面構えは強面だったが、苦労人らしい、気配りのある男だった。当時の選挙区は広い。夕刻、北上山系に入ると日がとっぷり暮れている。山に向かって連呼を続ける小笠原たちに、こういった。

「こんな山ン中、人など住んでおらん。連呼などいい。寒いからみんなで赤トンボを歌おうや」

 佐重喜は少年期、東京で奉公をするため郷里・水沢を離れた。苦学して日大夜間部を出て弁護士となり、東京の下町を地盤に府議をつとめた。戦後、岩手選出の代議士となり、運輸大臣などを歴任、安保の乱闘国会では「闘牛」ともいわれた。叩き上げの、立志伝中の人である。

 中学3年、小沢は東京に転居する。小沢に映る父は、政界の上昇階段を上りつつ、終生、エスタブリッシュメントに馴染じめない男だった。不器用で、地金に反骨の性根があった。そういう父が好きでもあった。

 佐重喜死去の後を受け、日大大学院で司法試験の準備をしていた小沢が立候補する。27歳。〈東北〉と父の後ろ姿は小沢のDNAを構成している。

 政治家を志したのは高校生のときである。父の存在はあったけれども、たとえ二世でなくても選び取ったろうという。弁護士は出馬するまでの借り住まいという胸算用であったが、法律の勉強はすいすいアタマに入る。小沢のもつ論理的明晰さは天性のものであろうが、法律に馴染んだことがそれを磨いたように思える。

 青年期から小沢は読書家だった。

 どんな本を読んできましたか、という問いにあがった名を列記すれば、北一輝、ドイッチャー、マルクス、ウェーバー、ドイツ革命・ロシア革命・中国革命に関するもの、ドゴールやチャーチルの回想録……など。後年、好みは歴史物語に移っていった。先頃、鞄に入っていたのは半藤一利の『昭和史』。小沢はインテリゲントな人である。

 先の総選挙で落選したが、小沢チルドレンの一人、樋高剛は世田谷にある小沢宅で十年余、書生をつとめた。仕事のひとつに、塩野七生や司馬遼太郎の新刊本が出るたびに買いに出向くことがあった。夜、酔っ払って帰宅してからも小沢は本を開く人だった。小沢によれば、いまはもう酒が入ると寝てしまうということであるが。

 人はだれも本を自身に引き寄せて読む。小沢から伝わってくるのは、時代の大きな流れ、「興亡史」を読み取る読書である。

田中角栄が太鼓判押す
頭は西洋人、心は日本人
難しい情と理の使い分け
 
先の選挙で落選した民主党前代表代行の藤井裕久は、自民党分裂から民主党合流まで、終始、小沢と歩みを共にした一人である。大蔵省の出身。はじめて「小沢一郎」の名を刻んだのは官僚時代、田中角栄からである。何かの会合で角栄の言を小耳に挟んだ。

「小沢一郎というのはえらくなる。あれはそこらの連中とはモノが違う」

 角栄が小沢を格別に可愛がったことはよく知られている。夭折した長子の再来を小沢に見たからだともいうが、付随的なことだろう。角栄は小沢のもつただならぬ天稟を見抜いていたのだろう。

「オヤジ(角栄)は僕には何も隠さなかった。表も裏も私ごとも一切合財を含めて。いまもいえないことばかりですけれどもね……」

 小沢にとって角栄はもう一人の父だった。政界では若造に過ぎない40代、幹事長として縦横に政局を仕切り得たのは「免許皆伝」まで達したオヤジ直伝の術を習得していたからである。

 その意味でいえば、小沢は戦後自民党のただなかで育った政治家である。同時に、角栄の愛弟子は、角栄的世界からもっとも遠い思想を宿した政治家でもあった。小沢は反面教師としてもオヤジから多くを学んだはずである。

 角栄門下生のなかで、ロッキード裁判をすべて傍聴したのは小沢だけである。その理由については「情です」と小沢はいった。確かであろう。と同時に、裁判の全過程に接するなかで、ひとつの時代と権力の滅びの音色を耳にしていたはずである。

 自己変革をなし得ない体制は必ずや滅びる、カルタゴしかりソ連邦しかり――それが小沢の歴史観であり思想の根幹にあるものであるが、その思いを深めたのは、身に染みて体験した、オヤジ角栄にかかわる興亡史ではなかったのか。

 これまでの政治歴のなかで、もっともエキサイトしたのは、竹下派・経世会の結成と自民党からの離党であったという。前者は途中から「オヤジとの闘争」となった。情においては忍びない。けれども、利害を調整処理することで済んだ角栄型の戦後政治は終わった。小沢は冷徹に見切ったのである。

 人はだれも相矛盾したものを自身のなかに持っている。小沢側近の一人は、小沢を「アタマは西洋人でカオとハートは土着日本人」と評したが、当たっている。この二つから敷衍して眺めると、小沢の節々の政治判断の多くは解ける。

 近世の政治家では大久保利通をもっとも評価する。新国家樹立を至上のものとし、それを断行することにおいて一切の私情は介在させなかった。政事は冷徹であらねばならない。そうでなければ国は救われない。アタマは完璧にそう思っている。同時に、滅びゆく武士階級に殉じた西郷隆盛をどうしようもなく好きでもあるのだ。

 先頃、藤井は政界引退を決め、まず小沢に告げるために赤坂の事務所に出向いた。「もう側にいて一緒に歩くことはできなくなりました」。そういうと、小沢は涙ぐんでいる。この十数年、藤井は小沢の涙を何度か見ている。

 情に流されて判断を誤ったことはありませんか――という問いに対して、「いくつかあったよ」と小沢は答えた。具体的には口をつぐんだが、小渕内閣時代、自自公結成などを指している。

 今も、角栄待望論を耳にすることがあるが、小沢は明確に否定する。オヤジは戦後のあの時期に求められた政治家であり、いま求められるのは土台を変える変革者であると。情と理の使い分け、ときに明瞭でありときにくもる。そのときどき、「土着日本人」が前に出、また「西洋人」が前に出る。その矛盾のなかで小沢は生きてきた。

 小沢の『日本改造計画』が出されたのは13年前であるが、基本理念に修正するものはないという。序文で、グランドキャニオンには柵もなければ管理人もいない逸話を記している。自身のことは自身の判断と責任の下に律せよというたとえである。小沢思想のエートスを単語に集約させれば「自立」である。

 痛切な問題意識を抱いたのは、幹事長時代、湾岸戦争時であったという。永田町も霞が関も右往左往するばかり。確たる定見はなにもない。当時まだしも財布は膨らんではいたがこれもいつかはへこむ。この国はがらんどうだ、戦後半世紀、このままでは国際社会から孤立し、経済大国の基盤は崩れていく――。権力中枢にいたがゆえに小沢には視えたのだ。

 根本的な枠組みからの変革、その手段として自民党に代わる政権党の樹立、その手段としての小選挙区制……。政敵や批判者を含め、小沢の構想が力を持ったのは、この国に巣食う病根を確かにえぐっていたからである。

 思想と構想をもつ政治家はいなくはない。小沢は構想を現実のものとすべく自民党を立ち割った。金丸信が権勢を振るっていた時期、総理になろうとすればなれた。けれども、なにをするために総理をやるのか、いまなったとしてそれができるのか――という問いを発せずにはおれない。そこに、小沢の小沢たる所以がある。

 小沢の歩みに脆弱さを見つけるとすれば、膨らみにおいて乏しいことである。かつて小沢側近と呼ばれた人たちの多くが小沢のもとを去っていった。双方に言い分があるが、この点、融通無碍、包み込むような包容力をもった角栄とは対照的である。小沢の、対人関係における多分に不器用な部分に起因するものもあるが、根本的にいえば、思想とは反作用として峻別を併せもつものであって、思想政治家のもつ宿命である。

 いつまでたっても〝丸く〟ならない。なれないのだ。最近も、古くからの自民党の友人にこういわれた。

「一ちゃん、いつまで書生のようなことをいってるんだ」

 その通りだ。けれども、俺は死ぬまで書生なんだろう、そうである以外、小沢一郎という政治家の存在理由もまたないであろうから……。

 戦ってきたのは日本か
小選挙区制はオセロだ
次期選挙を関ヶ原として

自立とは、苦渋をともなう理念である。それは制度的な改革に留まらず、人の生き方を問う思想でもあるからだ。岩手の農業者や商工業者が小沢から聞かされてきたのは、耳に心地よい補助金の話ではなく、それぞれの自立策である。

 その意味でいえば、永田町の変革は入り口に過ぎない。その政治思想は、行きつくところ、〝非自立〟をもって繁栄した戦後日本のありよう、護送船団、コンセンサス社会、曖昧模糊、ヌエ的なるもの……さまざまにはびこった日本的なるものと衝突する。ふと思って訊いた。

 ――結局、小沢さんが大汗をかいてきたのは〈日本〉とのたたかいだったのではないでしょうか。

「いや、その通りだと思いますね」

 先の総選挙。小泉劇場によって自民党は大勝、時間の針が戻った感がある。日本社会は枠組みの変化を自ら欲しない社会であると解すべきなのか――。が、小選挙区制とはこういうものだと小沢はいう。オセロゲームのように変わる時は一挙に変わる、と。

「与野党を含め、永田町は旧態依然だけれども国民の意識は変わりつつある。あの明治維新をやった国だもの、できないはずはない。……ま、時が無為に過ぎたなぁと思うことはありますがね」

 自身の政治思想を、いつか日本社会が選択する日がくること。それを信じることにおいて小沢はロマンティストである。07年には参議院選挙がある。そこでまず「非自公」で過半数を制すこと。そうすれば次期総選挙は関ケ原たりうる――。

「どういう立場にいるにせよ、前に出て選挙を仕切りたい。自民党と四つに組んで喧嘩をやれるのは他におらんでしょう。総決算として勝負をしたい」

 剛腕・小沢一郎の貌になって、小沢はそういった。(文中敬称略)



【年表】
■おざわ・いちろう

1942年
小沢佐重喜・みちの長男として生まれる。中学2年まで岩手・水沢で育つ。
3年時、文京区立第六中学へ編入。都立小石川高校へ進む。
67年
慶応大学経済学部卒業。司法試験を受けるため日本大学大学院に入学。
69年
岩手2区から初当選。田中派に所属。以降、13回連続当選。
82年
自民党総務局長。以降、議院運営委員長、
中曽根内閣の自治大臣など歴任。
87年
竹下内閣の官房副長官に就任。
89年
自民党幹事長に就任。総選挙、都知事選、
湾岸戦争の対応などで采配を振るう。
92年
改革フォーラム21結成、自民党を離党、新生党結成。
93年
新生党代表幹事として細川内閣を誕生させる。
94年
新進党幹事長。95年、党首就任。
98年
自由党党首就任。
2003年
自由党を解党し、民主党に合流、代表代行、副代表に。
家族 世田谷区の自宅に妻、長男・次男・三男の五人家族。



2010年1月26日 (火)

誰も知らない小沢一郎夫人和子さんの素顔


●数億円の貯金もナットクの大金持ちだった。小沢幹事長が、今週末に検察の聴取に応じるという。一時は、小沢の妻・和子さん(65)の任意聴取まで取り沙汰され、その存在に注目が集まった。西松事件がなければ、今頃ファーストレディーになっていたかもしれない女性なのに、和子夫人の素顔は、ほとんど知られていない。一体どんな人物なのか。「和子夫人は、“内助の功”という言葉がピッタリの控えめな人です。ポッチャリ体形で、服装は質素。ブランド品を身につけることもありません。鳩山首相の幸夫人とは正反対のタイプですね。小沢邸での新年会でも、厨房を仕切るなど裏方に徹し、表には出てこない。人手が足りないときには料理を運んで来たりもしますが、自分から挨拶することもなく、すぐにいなくなってしまう。後になって“さっきの女性が奥さんだったの?”と驚く議員も多いそうです」(政治評論家・有馬晴海氏)“お手伝いさん”と間違われることもあるくらい地味な印象の和子夫人だが、実はタイヘンな資産家だ。田中角栄の後援会幹部で、新潟県の大手ゼネコン「福田組」の経営者だった福田正氏の長女。上智大卒の才媛でもある。「英語がペラペラで、ダイアナ妃が来日した時は、通訳なしで話したそうだよ。頭がいいことをひけらかさないし、偉ぶらなくて感じのいい人だよ」(地元関係者)角栄の仲介で、衆院2期目だった小沢一郎と73年に見合い結婚。09年3月に提出された有価証券報告書によれば、今も福田組の株式を136万3000株(3.03%で第8位)も保有している。「昨年、福田組の第2位の大株主だった父の正氏が亡くなり、和子夫人は株などの財産を相応に相続したと思われます。保有株の資産価値は数億円。配当だけでも、毎年かなりの金額になる。長者番付が公表されていた当時は、和子夫人は高額納税者の常連でした。福田組の監査役を務めていたこともあり、毎年2000万円前後を納税していた。つまり、6000万~7000万円程度の収入があったということです」(ベテラン政治記者)それなら、数億円単位の貯金があっても不思議はない。小沢の政治活動をまさに物心両面で支えてきたわけだ。「平成3年に小沢氏が狭心症の疑いで入院した時には、献身的に看病。その後も体調を気遣って、小沢氏の昼食は、いつも和子さんお手製のおにぎり2個です」(有馬晴海氏=前出)さしもの小沢も夫人には頭が上がらないという。

(日刊ゲンダイ)



http://ozawa-ichiro.jp/seijijuku/

ようやく政権交代が実現して、 日本の立て直しが始まりました。「国民の生活が第一。」の政治を確立し、経済・社会を根本からつくり直さなければなりません。

世界の政治・経済が激動している今日、私たちの目指す「日本一新」は、一日の猶予も許されません。その大事業を成し遂げ、日本を本当に豊かな国にするためには、不動の覚悟と強い責任感を持った若い人材が不可欠です。

「小沢政治の理念と哲学」を、小沢塾長自ら伝授いたします。新しい日本のリーダーを目指す方、どうぞご応募ください。


小沢一郎政治塾 概要

設立目的
21世紀の日本の在るべき姿と歩むべき道筋を構想し、かつその実現を担い得る、志の高い若い人材を発掘、養成する。そのために、衆議院議員小沢一郎が「塾長」として指導に当たり、「小沢政治の理念と哲学」を直接教育する。

指導方針
日本を抜本的に改革するという壮大な志と、何としても改革をやり遂げるという責任感。その「志と責任感」の育成を重視する。
各界各分野で創造的・指導的役割を果たす人材を育てる。ただし、入塾者・塾卒業者に選挙の立候補を約束するものではない。

塾 生
男女とも、20歳以上、原則35歳以下とする。国籍は日本であること。
募集定員は、原則として30人とする。

在塾期間
前期1年、後期1年の2年間とし、各期とも1月開始~9月終了の9ヵ月間とする。
前期を終え、後期へ進級を志望する者は、進級審査を受け、合格者が進級できる。
2年間修了の者には、小沢塾長より修了証を授与する。


カリキュラム
(1) 集中講義:毎年 2月と 7月に、それぞれ4日間の集中講義、討論を行う。
(2) 年 4回のリポート提出など。

集中講義概要
日本でトップクラスの講師陣と小沢一郎塾長が講義・討論を行う。若手議員との徹底討論も実施。
講義課目:政治論、経済・財政政策、行政改革、教育問題、環境問題、日本文明論、他

費用負担
各研修に要する費用のうち、実費は本人負担とする。
例えば、年2回の集中講義については、会場までの往復の交通費と合宿費(宿泊費、食事等4万円程度)は全ての塾生の自己負担とする。講師に関する諸経費(謝礼、交通費、宿泊費等)と懇談費は主催者が負担する。

小沢一郎政治塾 10期生応募/選考要領

募集人員
30名

応募条件
年2回の集中講義(それぞれ3泊4日)に参加できることと、その研修実費を自己負担することを条件とする。
年齢 20歳以上、原則 35歳以下の男女。国籍は日本。


応募締切
平成 21年 12月 4日(金)必着 【注】書類は書留にて郵送のこと。
応募者の秘密は厳守致します。

応募に必要な書類
【注】 応募書類は一切返却致しませんので予めご了承ください。
(1) 申 込 書 : 所定の用紙に記入、写真 ( 7cm × 6cm 、撮影 3ヵ月以内 ) を貼付。
(2) 小 論 文 :
以下のうちどちらかのテーマを選び、論じて下さい。
A)私の志
B)日本人の自立のために
A4サイズ 400字詰め原稿用紙 ( 縦書 ) で 5枚以内。パソコン可。
(3) 入塾推薦書 ( 2通 )
(4)
一次審査に合格し、二次審査を受ける者 : 戸籍謄本 あるいは 抄本 ( 取得後 3ヵ月以内のもの ) 1通 【注】面接時に持参。

選考方法及び基準
(1) 一次は書類審査。二次は討論及び面接審査。

(2) 選考の主要基準
新しい日本を創り出そうとする情熱・意志
21世紀の日本を担うに相応しい人格・識見
リーダーとしての資質・可能性
【注】 合否の結果は本人に書面で直接通知致します。審査内容についてのお問い合わせは、一切受けかねます。


募集から開講までの主な日程

募集締切 : 平成 21年 12月 4日 (金) 必着
【注】書類は書留にて送付のこと

一次審査 : 平成 21年 12月 7日 (月)
書類審査

二次審査 : 平成 21年 12月 19日(土)
全体討論、個別面接 等
【注】会場は東京都内

結果発表 : 平成 21年 12月 24日(木)[ 予定 ]
合否を本人に通知

開校式/
冬季集中講義 : 平成 22年 2月 10日(水) ~ 2月 13日(土)
【注】会場は東京都内


応募書類提出先/問合せ先
小沢一郎政治塾事務局

〒102-0094 東京都千代田区紀尾井町1‐11 3F
FAX:03‐3264‐8833
E-mail:seijijuku@soleil.ocn.ne.jp
HP:http://ozawa-ichiro.jp/



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