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朝日新聞とロックフェラー

緒方竹虎が作り出した朝日新聞とアメリカのルートは、その後、小坂徳三郎、山本正そして船橋洋一主筆へと引き継がれた。

緒方竹虎は朝日新聞社では出世街道を走り、東京朝日新聞社政治部長から、1925年(大正14年)に38歳で同編集局長、1934年(昭和9年)に同主筆を経て、1936年(昭和11年)、朝日新聞社主筆となった。
その後、政界に進出し、日本版CIAを創設しようとしたが、外務省や世論の反対により挫折した。しかし、この緒方の動きに目を付けたアメリカのCIAは、緒方を日本の首相にさせようと政治工作を行うようになる。緒方の方も日本政界の情報を提供していたという。
1955年には「POCAPON(ポカポン)」の暗号名を付け緒方の地方遊説にCIA工作員が同行するなど政治工作を本格化させた。

ロックフェラーの日本代理人。そして日本国際交流センターを創設したのは、この山本正。

現在、彼について知ることのできる書籍は3冊程度。
この人に関しては、回顧録の類が一切存在しない。

ある人は山本正のことを「フィクサー」と呼び、ある人は「日本の国際交流の立役者」と呼ぶ。

実家がイエズス会の神父の家系。
世界最大の麻薬・兵器密売組織、マネーロンダリング組織、売春組織がバチカンである。その実働部隊がイエズス会である。(オルタナティブ通信より)

山本正は上智大学文学部哲学科に入学、将来は神父になろうと考えていたという。

山本正氏の朝日新聞社における子分が船橋洋一主筆。

山本の薫陶を受けて、ロックフェラーと朝日新聞の結びつきをより強くしたのが、船橋洋一朝日新聞主筆





朝日新聞をおかしくしているのは編集権を握っている船橋洋一主筆(副島隆彦氏)



http://www.rui.jp/ruinet.html?c=400&i=200&m=208325

208325 朝日新聞とロックフェラーを結びつけた山本正
 
山澤貴志 ( 44 鹿児島 ITコンサル ) 09/06/07 AM02 【印刷用へ】
緒方竹虎が作り出した朝日新聞とアメリカのルートは、その後、小坂徳三郎、そして山本正へと引き継がれたようだ。

リンク

小坂徳三郎(元文部科学大臣の小坂憲次の叔父)は朝日新聞に戦中戦後に勤務。彼の秘書が、山本正。
ロックフェラーの日本代理人。そして日本国際交流センターを創設したのも、この山本正――
となれば、ここがロックフェラーの日本支配の重要な部署であることは理解できる。

山本正という人は、デヴィッド・ロックフェラーやヘンリー・キッシンジャーをファーストネームで呼ぶことができる、わが国で唯一といってもいい存在である。現在の日米人脈をたどっていくと必ずどこかで名前に突き当たるといわれる大物であり、ロックフェラーがかかわったイベントの多くに顔を見せている。
 
山本は、政治の世界には入らず、地味な「つなぎ屋」に徹した。彼は「国際交流は中立でなければいけない。一人の政治家に付いていたのでは駄目だ」とも語っている。一方で、この言葉は、デヴィッド・ロックフェラーの、「新しく、よりよい形の国際交流を模索する点では、往々にして、政府よりも民間人のほうが大きな柔軟性を持って働くことができる」という言葉と符合している。ロックフェラー家も、政治家になる道を選ぶ者と、民間の財界人として国際社会に大きな影響力を及ぼすタイプがいるのだが、これには政治と民間の両面で、うまく物事を動かそうというロックフェラー家の帝王学のようなものなのかもしれない。

山本の薫陶を受けて、ロックフェラーと朝日新聞の結びつきをより強くしたのが、船橋洋一です。以下、『暴走する国家 恐慌化する世界』 副島隆彦・佐藤優  日本文芸社より。

>(日本国際交流センター理事長の)山本正さんといえば、やはりデイヴィッド・ロックフェラーが主宰する三極委員会の日本事務局を担当していました。彼が日本における “皇帝デイヴィッド” の総代理人だと思います。
そしてこの山本正氏の朝日新聞社における子分が船橋洋一主筆でしょう。(p.254)

実際、船橋はロックフェラーを持ち上げまくっている。
リンク

緒方竹虎が作り出した朝日とアメリカのルートは、小阪-山本-船橋と引き継がれていったようだ。








http://www.asyura2.com/10/senkyo83/msg/558.html

それでもあなたは毎月3925円払って朝日新聞を購読しますか?(杉並からの情報発信です)
http://www.asyura2.com/10/senkyo83/msg/558.html
投稿者 山狸 日時 2010 年 4 月 02 日 12:37:20: tX9mutQ2kzrA2

長妻厚労相が4月1日付けで独立行政法人「福祉医療機構」の総括理事から元社保庁運営部長の青柳親房氏を更迭した件に関して、日刊ゲンダイと朝日新聞の記事を読み比べてみてください。

日刊ゲンダの記事は、元社保庁運営部長の青柳親房氏は政権交代直前の昨年7月に駆け込みで「福祉医療機構」の総括理事に天下りしたこと、何よりも宙に浮いた「年金記録」5000万件の直接の責任者であったことを考えれば「更迭は当然」との主張です。

一方の朝日新聞は、「福祉医療機構」の有識者による選考委員会が2度にわたって青柳親房氏を総括理事に選んだが長妻昭厚労相の「個人的な逆恨み」で更迭したのであり「不当な人事介入」であるとの論調です。

どちらの記事が問題の本質をついているかはすぐにわかります。

年金制度の根幹である「年金記録」を正確に記録しデーターベース化をすることを怠った厚労省の年金官僚達は誰一人としてその責任を取っていません。

いい加減な「年金記録」のために多くの無年金者や年金不給者が生活苦に陥っていることなど特権的な厚労官僚とっては所詮「他人事」なのでしょう。

朝日新聞の記事は青柳親房氏が社保庁運営部長として「年金記録」問題にどの様にかかわりどのような責任があったのかの検証は一切していません。ただ長妻昭厚労相が「個人的な逆恨み」で更迭したとデマを流しただけです。

朝日新聞は反小沢、反民主党のデマ情報満杯の読売新聞や産経新聞とまったく同じ低レベルの新聞であることが図らずも暴露されました。

毎月3925円もの大金を払って朝日新聞を購読する意味が一体どこにあるのでしょうか?

(転載開始)

 長妻大臣が3度も天下り阻止 日刊ゲンダイ

2010/04/01 http://octhan.blog62.fc2.com/blog-date-201004.html

問題の元社保庁幹部は消えた年金の“A級戦犯”だった

長妻厚労相(49)が、厚労官僚OBの天下り人事をハネ返した。

きょう1日付で、独立行政法人「福祉医療機構」の総括理事から更迭されたのは元社保庁運営部長の青柳親房氏(56)。

自公政権下で年金問題をめぐって、野党時代の長妻大臣と国会で対決した“宿敵”だ。

青柳氏の更迭について厚労官僚たちは「大臣の個人的な逆恨み」なんて言っているが、バカバカしい。天下りした経緯や、青柳氏の経歴を見れば更迭は当然。

なぜ、機構側がこんな人物の起用にこだわったのか、そっちの方にクビをかしげたくなる。

青柳氏が厚労省を退官し、総括理事に再就職したのは昨年7月のこと。政権交代直前の駆け込み天下りだった。

この人事に長妻は、大臣就任初日にいきなり「NO」を突きつけた。

「省内に『天下り凍結』を指示し、青柳氏の就任は棚上げ。機構の総括理事ポストも公募されることになったのです。

ところが、昨年12月に機構側は有識者による選考委員会を開いて、4人の最終候補から再び青柳氏を選出した。

当然、長妻大臣は認めず再公募となりましたが、今月になって機構の選考委は6人の最終候補の中から三たび青柳氏を提案してきたのです」(厚労省関係者)

こんな男を何度も理事にした選考委は正体をさらせ!

完全に長妻大臣への嫌がらせだ。業を煮やした長妻大臣は「それなら、直談判だ」と異例の面接に踏み切ったが、機構改革の意欲をただしても、青柳氏は「厚労省の関係部局と協議して」などと“官僚答弁”に終始。結局、長妻は続投拒否を決めて、総括理事ポストは削減された。

お払い箱となった青柳氏には規定通りの退職金が支払われるという。

社保庁ナンバー2の運営部長時代の青柳氏は、宙に浮いた年金記録が5000万件にも及ぶことを把握しながら、当時の安倍首相に1年近く情報を上げなかった

“A級戦犯”のひとり。記録漏れを認めた後も対応は後手後手に回り、国民の怒りを増幅させた。結局、07年の参院選での自民惨敗後、一連の混乱を招いた引責人事で、厚労省の九州厚生局長に“左遷”されました。

こんなボンクラOBを2度にわたって理事に推した選考委の見識を疑うが、福祉医療機構は選考委の構成について「大学教授4人」と答えるのみ。

氏名や所属大学などの公表は一切拒んでいる。奇怪な話だ。本当に選考委なんて存在するのか!

長妻大臣は詳細を国会で公表した方がいい。

(転載終わり)

(転載開始)

▼「長妻氏の個人的な逆恨み」 天下り阻まれ関係者恨み節 朝日新聞

2010年3月31日 http: //www.asahi.com/politics/update/0331/TKY201003310122.html

30日決定の独立行政法人の役員人事で、厚生労働省所管の理事ポストが削減された。有識者による選考委員会が2度にわたって同じ官僚OBに決めたが、長妻昭厚労相が覆した。不透明な天下り人事の排除を狙った公募だが、長妻氏による「人事介入」への疑問も出ている。

長妻氏が覆したのは、福祉医療機構の理事ポスト。学者4人をメンバーとする選考委は昨年12月、元社会保険庁幹部(56)を候補として決めたが、長妻氏が認めずに再公募となった。選考委は再検討の結果、今月になって同じ人物を提案したのに対し、長妻氏は異例の面接に踏み切ったうえで、起用を見送った。

(転載終わり)

2度にわたって青柳氏を選んだ独立行政法人「福祉医療機構」の選考委員会メンバーは、会社役員1名、大学教授3名、公認会計士1名計5名とのことですが、具体的な人名は一切公表されていません。

最後にご参考のために産経新聞の該当記事を以下に転載します。

(転載開始)

▼社保庁OBを天下り先から更迭 長妻厚労相 産経新聞

2010.3.31 http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100331/plc1003310130001-n1.htm

厚生労働省所管の独立行政法人の役員人事(4月1日付)で、元社会保険庁運営部長の青柳親房氏(56)が天下り先の福祉医療機構の総括理事から更迭されることが30日、分かった。総括理事ポストは公募され、外部有識者による選考委員会は青柳氏の続投を求めたが、長妻昭厚労相が「改革意欲に欠ける」と判断したようだ。

任命権者は理事長で、理事ポストの削減理由は「任命権者と大臣が協議の上、適任者なしで空席」とされた。

ただ、この元幹部は、長妻氏が野党時代に年金記録問題を追及した国会で答弁していたことから、「個人的な逆恨み」(関係者)との指摘もある。

選考委の一人は「官僚OBがダメなら最初から明確にすべきだ。ルール変更はおかしい」と不満を漏らしている。

(転載終わり)




http://plaza.rakuten.co.jp/atsushimatsuura/diary/200804110000/

『ジャパン・ハンドラーズ』(中田安彦・2005年)からの引用。P212以下。

● ロックフェラーの日本秘書・山本正
 三極委員会の設立会合は、1972年7月、ニューヨークのロックフェラー邸で行われた。
 この委員会の設立に深くかかわった山本正(やまもとただし・日本国際交流センター理事長)によれば、日本側からは、宮沢喜一、大来佐武郎、武者小路公秀の3氏が参加しアイデアを練ったという。
 アメリカ側からは、提唱者のロックフェラー、ブレジンスキーに加えて、フレッド・バーグステン(プラザ合意の立役者)、マクジョージ・バンディ(当時フォード財団理事長)らが出席している。
 山本はあくまで事務的な立場で、この委員会にかかわったと述べているが、彼はその後、「ロックフェラーの日本秘書」(『軍隊なき占領』)と呼ばれ一目置かれることとなる。
 山本正という人は、デヴィッド・ロックフェラーやヘンリー・キッシンジャーをファーストネームで呼ぶことができる、わが国で唯一といってもいい存在である。現在の日米人脈をたどっていくと必ずどこかで名前に突き当たるといわれる大物であり、ロックフェラーがかかわったイベントの多くに顔を見せている。
 彼のように、評価が人によってここまで異なる人物は珍しいだろう。ある人は彼のことを「フィクサー」と呼びある人は「日本の国際交流の立役者」と呼ぶ。何しろ、この人に関しては、回顧録の類が一切存在しないのだ。
 現在、彼について知ることのできる書籍は、木下玲子[松浦注・中畜朝日新聞大幹部・船橋洋一の妻である]の『欧米クラブ社会』(新潮社)と、ジョン・ロバーツ、グレン・ディヴィスの『軍隊なき占領』(講談社)と、A50日米戦後史編集委員会による『日本とアメリカ パートナーシップの50年』(ジャパンタイムズ・1995年)[松浦注・ジャパンタイムズは、中国にも工場を持つ某製造会社が経営している親中派新聞であり、あのエクセントリックな森田実(元ブントの活動家)がときどき“大御所”として登場してくる(ので笑ってしまう)]の3冊程度だろう。
『軍隊なき占領』では、山本を徹底的に、日本の政財界を裏側から操る「影のフィクサー」として描いている。ディヴィスらは、この本を著すにあたって、実際、山本本人にインタビューしているが、彼は自身に関するこのようなブラックな評価を一切否定している。
 しかし同時に、彼は自分が何者であるのかも語っていない。山本は、この本の草稿にチェックを入れて、事実関係の間違いを一つ一つ正したらしいが、考えようによってはこれも凄い話だ。
 雑誌記事では、『日経ビジネス』(1992年10月12日号)が、山本正の人間像をもう少し掘り下げて解説している。
 これによれば、彼は、政界、財界、学会の交流の輪を広げる活動を30年以上も続けてきた「国際“つなぎ”屋ナンバーワン」(同誌)である。
 もともとは、実家がイエズス会の神父の家系だったこともあり、上智大学文学部哲学科に入学、将来は神父になろうと考えていたという。
 その後、アメリカのウィスコンシン州の片田舎にあるセント・ノーバート大学に留学したが、大学でMBAを取得してからは、神父になろうという考えを捨て、キリスト教徒の発想であると彼が信じる「国際的な理解と友好の促進」を社会の場で実現しようと思い立った。
 1962年には兄の友人から、信越化学工業の小坂徳三郎社長(当時)の秘書役にならないかという話がきた。ロバート・ケネディを日本に招くなどの国際交流活動をしていた小坂にかねてから興味をもっていた山本は帰国し、彼の秘書となる。
 1967年に「日米下田会議」(日米関係民間会議)をコロンビア大学のハーバート・パッシン(Herbert Passin)との協力で成功させ、国際交流の裏舞台にデビューする。その後、小坂徳三郎が選挙に出馬し当選、衆院議員となったので、それをきっかけに、独立を決意した。山本は仲間を引き連れて日本国際交流センター(JCIE)を設立する(1969年)。[ http://www.jcie.or.jp/japan/ ]

 ロックフェラーと山本は「日米財界人会議」の会合で知り合ったようだ。この会合はその名の通り日米財界人の交流機関であり、盛田昭夫(ソニー元会長)、槇原稔(三菱商事元会長)、小林陽太郎(富士ゼロックス会長)といった国際派財界人が会長を歴任した組織である。
「タダシと最初に会ったのは、20数年以上前ですね。日米財界人会議で日本に行ったときでした。国際社会のメンバーとして日本は世界に対等で貢献もしたいし、理解もされたい。そのために自分は役に立ちたいのだと、タダシは国際交流促進の仕事を自分の天命と信じて奮闘しているように見えました」(木下玲子『欧米クラブ社会』)
 このようにロックフェラーは回想している。
 山本は、政治の世界には入らず、地味な「つなぎ屋」に徹した。彼は「国際交流は中立でなければいけない。一人の政治家に付いていたのでは駄目だ」とも語っている。
 一方で、この言葉は、デヴィッド・ロックフェラーの、「新しく、よりよい形の国際交流を模索する点では、往々にして、政府よりも民間人のほうが大きな柔軟性を持って働くことができる」という言葉と符合している。
 ロックフェラー家も、政治家になる道を選ぶ者と、民間の財界人として国際社会に大きな影響力を及ぼすタイプがいるのだが、これには政治と民間の両面で、うまく物事を動かそうというロックフェラー家の帝王学のようなものなのかもしれない。

 


 
 小坂徳三郎は朝日新聞(三井新聞)に戦中戦後に勤務。妻は、三井十一家のうちの一つから出ている。戦後は『日本の支配層を支配した』アメリカ国際金融資本と関連が深かったのだろうと推測できる。彼の秘書が、山本正。ロックフェラーの日本代理人。そして日本国際交流センターを創設したのも、この山本正――となれば、ここがロックフェラーの日本支配の重要な部署であることは理解できる。ここのシニアフェローがあのゲス野郎の田中均。この田中が、先日デイビッド・ロックフェラーがやってきて催したパーティに参加していた写真は以前にアップした。日本国際交流センターは、ジョージ・ソロスの本も翻訳出版している、解りやすいものである。ソロスに2度会ったことを自慢げに吹聴しているのが、三井物産の犬・寺島デビル実郎。
 小坂徳三郎から連なるアメリカ金融資本の協力者を考えると、三極委員会の重鎮・加藤紘一と並んでなぜこの写真に小坂憲次が写っているのかが理解できるだろう。





イエズス会

オルタナティブ通信より

 宗教組織は「信教の自由」の名の下に、どこの国でも国家から一定の自由を持つ。各国の「当局の監視の眼が届かない」宗教組織バチカンの世界的ネットワークは、売春・兵器密売の利益=裏金の世界的流通ネットワークとして機能している。

世界最大の麻薬・兵器密売組織、マネーロンダリング組織、売春組織がバチカンである。その実働部隊がイエズス会である。


 ところで、英国王室のその運営を「担当させられている」のは英国王家であるが、英国王室の「所有権」は、ローマ・カトリック教会=バチカンにある。バチカンの財政を握り、その権力を握って来たイエズス会は、元々軍事組織でありテンプル騎士団に源流を持っている。従ってテンプル=イエズス会の軍事戦略を読解しないと、米国のアジア戦略は読めない事になる。

また織田信長、徳川家康に鉄砲と火薬を与え、徳川幕府を創立させたのが軍事組織イエズス会であり、明治維新において、海援隊等幕末の「勇者」達に資金と武器を与えていたのもイエズス会である。従って日本近世、近代の政治史は、イエズス会の「あやつり人形」=戦国武将と海援隊等により動いて来た。

http://www.news.janjan.jp/government/0908/0908249232/1.php

緒方竹虎

朝日新聞社での活躍 [編集]
1911年(明治44年)に早稲田大学専門部を卒業後、やはり、中野に誘われ大阪朝日新聞社に入社して東京勤務となる。朝日新聞社では出世街道を走り、東京朝日新聞社政治部長から、1925年(大正14年)に38歳で同編集局長、1934年(昭和9年)に同主筆を経て、1936年(昭和11年)、朝日新聞社主筆となった。
現場の新聞記者としては取り立てて優秀とは言えなかったが、学生時代から頭山満を介して三浦梧楼、犬養毅、古島一雄らの知遇を得ており、「大正」の年号をスクープした。社内ではなくてはならない存在という事で、「空気のような男」という評判が立つようになっていった。さらに、金銭上公私の区別に厳しかった。
剛直な性格でも知られ、二・二六事件では、当時東京有楽町にあった東京朝日新聞社は中橋基明中尉率いる反乱軍に襲撃されるが、主筆であった緒方は、これに悠々と応対し、反乱軍を引き上げさせた。また、太平洋戦争中に学生時代からの親友だった中野正剛が、東条英機首相に弾圧され自殺を遂げると、その葬儀では東条からの供花を拒否して見せた。
1943年(昭和18年)、社長の村山長挙らと対立して主筆を解任され副社長となる。1944年(昭和19年)7月に退職。
政界進出 [編集]
朝日新聞社退職後、小磯国昭内閣に国務大臣・情報局総裁として入閣し、その後も終戦を挟んで鈴木貫太郎内閣の顧問や東久邇宮稔彦王内閣での国務大臣・内閣書記官長をつとめた。1945年12月に戦犯容疑者指定、1946年(昭和21年)9月に公職追放、1951年(昭和26年)10月に追放解除となっている。戦犯容疑者指定がなければ、敗戦で社内の緒方派と反緒方派の対立が再燃して自らも調停に乗り出し、村山長挙社長が辞任していた朝日新聞社の社長に就任するはずであった[1]。
追放解除の翌年にあたる1952年(昭和27年)10月、衆議院議員総選挙で福岡1区(当時)から出馬し当選する。第四次吉田茂内閣で当選1回ながら、国務大臣・内閣官房長官に任命され、1953年(昭和28年)5月成立の第五次吉田内閣で副総理に就任した。この政界での急速な階梯昇段の要因には、吉田の政治指南役だった古島一雄の紹介や、吉田が重光葵の後任として外務大臣になった際、緒方が骨折りをしたことなどが挙げられる。
なお、緒方は内閣官房長官であったとき内閣官房内に「調査室」という名称の小さな情報機関を設立した。これが現在の内閣情報調査室の源流である。その後、日本版CIAを創設しようとしたが、外務省や世論の反対により挫折した。しかし、この緒方の動きに目を付けたアメリカのCIAは、緒方を日本の首相にさせようと政治工作を行うようになる。緒方の方も日本政界の情報を提供していたという[2]。





http://hakusanjin.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/09726-fe14.html

緒方竹虎と正力松太郎がCIA協力者だった事実~09年7月26日毎日新聞朝刊
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 面白いニュースが毎日新聞7月26日朝刊1面トップに出ていた。<緒方竹虎を通じCIA政治工作/50年代・米公文書分析/「彼を首相にすれば、日本は米国の利害で動かせる」>である。いわゆるCIA「緒方ファイル」の分析から出てきた新事実だ。「アメリカよ」取材班の執筆とあった。

http://mainichi.jp/select/today/news/20090726k0000m030117000c.html

 読んでみよう。

 <1955年の自民党結党にあたり、米国が保守合同を先導した緒方竹虎・自由党総裁を通じて対日政治工作を行っていた実態が25日、CIA(米中央情報局)文書(緒方ファイル)から分かった。CIAは緒方を「我々は彼を首相にすることができるかもしれない。実現すれば、日本政府を米政府の利害に沿って動かせるようになろう」と最大級の評価で位置付け、緒方と米要人の人脈作りや情報交換などを進めていた。米国が占領終了後も日本を影響下に置こうとしたことを裏付ける戦後政治史の一級資料と言える。>

 確かに戦後一級の資料だろう。

 <山本武利・早稲田大教授(メディア史)と加藤哲郎・一橋大大学院教授(政治学)、吉田則昭・立教大兼任講師(メディア史)が2005年に機密解除された米公文書館の緒方ファイル全5冊約1000ページを約1年かけて分析した。内容は緒方が第4次吉田内閣に入閣した1952年から自由党と民主党との保守合同後に急死した1956年までを中心に緒方個人に関する情報やCIA、米国務省の接触記録など。>

 相当に手間のかかった分析だっただろうなぁ。それにしても米国の民主主義は半端じゃない。米公文書館(アーカイブ)には宝の山がまだまだ眠っているのだろう。

 <それによると日本が独立するにあたりGHQ(連合国軍総司令部)はCIAに情報活動を引き継いだ。米側は1952年12月27日、吉田茂首相や緒方副総理と面談し日本側の担当機関を置くよう要請。政府情報機関「内閣調査室」を創設した緒方は日本版CIA構想を提案した。日本版CIAは外務省の抵抗や世論の反対で頓挫するがCIAは緒方を高く評価するようになっていった。>

 内閣調査室の淵源である。このほかに日本版CIAを作ろうとしていた、というが、どういう機関をイメージしていたのだろうか?

 <吉田首相の後継者と目されていた緒方は自由党総裁に就任。2大政党論者で他に先駆け「緒方構想」として保守合同を提唱し「自由民主党結成の暁は初代総裁に」との呼び声も高かった。>

 緒方を中心としたメディアの歴史については、朝日新聞政治部記者だった人が2冊の本にまとめていた。

占領期の朝日新聞と戦争責任 村山長挙と緒方竹虎 (朝日選書)
著者:今西 光男
販売元:朝日新聞社
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新聞 資本と経営の昭和史 朝日新聞筆政・緒方竹虎の苦悩 (朝日選書824)
著者:今西 光男
販売元:朝日新聞社
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 <当時、日本民主党の鳩山一郎首相はソ連との国交回復に意欲的だった。ソ連が左右両派社会党の統一を後押ししていると見たCIAは保守勢力の統合を急務と考え、鳩山の後継候補に緒方を期待。1955年には「POCAPON(ポカポン)」の暗号名を付け緒方の地方遊説にCIA工作員が同行するなど政治工作を本格化させた。

 サンフランシスコ平和条約で日本が独立した後もこういう動きが行われていたわけだ。

 <同年10~12月にはほぼ毎週接触する「オペレーション・ポカポン」(緒方作戦)を実行。「反ソ・反鳩山」の旗頭として首相の座に押し上げようとした。緒方は情報源としても信頼され、提供された日本政府・政界の情報はアレン・ダレスCIA長官(当時)に直接報告された。緒方も1955年2月の衆院選直前、ダレスに選挙情勢について「心配しないでほしい」と伝えるよう要請。翌日、CIA担当者に「総理大臣になったら1年後に保守絶対多数の土台を作る。必要なら選挙法改正も行う」と語っていた。

 これじゃあスパイじゃないか。緒方竹虎という人物の再評価(マイナスの再評価)が不可欠な情勢になってきそうだ。

 <だが、自民党は4人の総裁代行委員制で発足し緒方は総裁になれず2カ月後急死。CIAは「日本及び米国政府の双方にとって実に不運だ」と報告した。ダレスが遺族に弔電を打った記録もある。結局、さらに2カ月後、鳩山が初代総裁に就任。CIAは緒方の後の政治工作対象を、賀屋興宣氏(後の法相)や岸信介幹事長(当時)に切り替えていく。>


 <CIAの「緒方ファイル」は戦後の日本政治が東西冷戦の下、水面下でも米国の強い影響を受けながら動いていた様を示している。米情報機関が日本の首相を「作り」、政府を「動かせる」という記述は生々しい。CIAが日本で活動を本格化したのはサンフランシスコ講和条約・日米安保条約が発効した1952年からだ。米国では翌53年1月、共和党のアイゼンハワー政権が誕生。同7月の朝鮮戦争停戦を受け新たなアジア戦略を打ち出そうとしていた。>

 欧州正面の冷戦対策だけでなく、アジアでも冷戦対応が急務になったということか。赤坂の東急赤阪ホテルが角地にあり、山王神社方面に歩いていくと左手に白い建物、山王ビルがあった。フルブライト委員会の留学手続きなどを行う機関や米国の文化関係施設が入ったビルだったが、このビルにはCIAが入っているのだ、と子どもの頃に聞いたことがあった。

 <それがCIAの積極的な対日工作を促し、日ソ接近を防ぐ手段として55年の保守合同に焦点をあてることになった。当時の日本政界で、情報機関強化と保守合同に特に強い意欲を持っていた緒方にCIAが目をつけたのは当然でもあった。>

 緒方の人望は今では想像できないほど高かったようだ。

 <ただ、CIAの暗号名を持つ有力な工作対象者は他にもいた。例えば同じ時期、在日駐留米軍の施設を使って日本テレビ放送網を創設するため精力的に動いていた正力松太郎・読売新聞社主(衆院議員、初代科学技術庁長官などを歴任)は「PODAM(ポダム)」と呼ばれていた。

 朝日新聞も読売新聞もCIAの協力者だった、ということか。戦時中は陸軍にコバンザメのように寄り添い、敗戦後は米軍に寄り添った大新聞か。毎日新聞はこのころから出遅れていたのだろうか?

 <加藤哲郎・一橋大大学院教授(政治学)によると「PO」は日本の国名を示す暗号と見られるという。また、山本武利・早稲田大教授(メディア史)は「CIAはメディア界の大物だった緒方と正力の世論への影響力に期待していた」と分析する。暗号名はCIAが工作対象者に一方的につけるもので、緒方、正力両氏の場合、いわゆるスパイとは異なるが、CIAとの関係はメディアと政治の距離も問いかける。>

 この辺だな。穏やかに書いているが、どう見てもスパイじゃないか。

 <時あたかも、政権交代をかけた衆院選が1カ月余り後に行われる。自民党結党時の政界中枢にかかわる裏面史がこの時期に明るみに出たのも因縁めく。また、自民党に代わり政権を担おうとしている民主党がここに来て対米政策を相次いで見直したのは日本の政界が政党の新旧を問わず半世紀以上前から続く「対米追随」の型を今なお引きずっているようにも見える。>

 この最後の文章は不要だった、と思うのだが……。折角の歴史的スクープを矮小化してしまうのではないか。

 ただ、この時期に戦後日米政治の淵源を暴く内容が明らかになった意味合いは大きいと思う。CIAの情報網は蜘蛛の巣のように日本の権力層内に張り巡らされているのだろうし、鳩山首相誕生という事態が米CIAにとってどう映るのか、興味深いところだ。
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