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エホバの証人とフリーメーソン

エホバ創始者ラッセルは死の間際に「フリーメイソンの服装」を要求した事実がものみの塔1916年12月1日号365-366頁に書かれています。

エホバの証人の創始者ラッセルと勢力を拡大させたラザフォードとも私生活は順風とはいかなかった。




エホバの創始者のお墓は、フリーメーソンの本部(メソニックセンター)のすぐ近くにある。
お墓の隣にある教会が建てた記念碑はフリーメーソンのシンボルとも言えるピラミッド。








エホバの冊子の中に隠されていた悪魔の顔






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http://buta.exjw2.org/books3.htm
ものみの塔(エホバの証人)の創始者は、アメリカ合衆国 ペンシルバニア州 アレゲーニー(現在のピッツバーグの一部)に生まれたアイルランド系移民の子、チャールズ・テイズ・ラッセル(1852-1916 嘉永5年~大正5年 )です。


1846年(弘化3年)、ラッセルが生まれる6年前に父親のジョセフ・L・ラッセ
ルがアイルランドからアメリカに移民してきます。ラッセルは3人兄弟の次男
として1852年に生まれ、9歳の時に母親を亡くします。ラッセルは14歳まで学
校に通いましたが父親の事業を手伝うために高校には行きませんでした。


長老派教会の信者として育てられたラッセルは、1868年(明治1年) 16歳の時に
会衆派教会に移りますが、すぐに辞めて東洋の宗教(詳細不明)に向かい、17
歳の時にアドベンティスト派の信者になります。


1870年(明治3年)、18歳の時にアレゲーニーに住む6人の若者が集まって国際
聖書学生というグループを作り、ラッセルはアドベンティスト派の牧師達から
指導を受けるようになります。


キリスト教は5世紀のアウグスチヌス以来、16~17世紀の宗教改革の時代まで
無千年王国説を受け入れてきました。ところが、アナバプテスト(再洗礼派)
というグループが出てきます。彼らは、黙示録(啓示の書)20章に出てくる千
年王国を文字通りに解釈しました。つまり、キリストがまず再臨し、その後千
年王国が到来すると主張しました。

19世紀初頭のヨーロッパは、フランス革命とナポレオンの席巻により混乱の
時代に入りました、この時代に生きる多くの人々が自分たちが「終わりの時」
に生きていると感じようになり、「世界の終わり」を予測する動きが一段と活
発になりました。そこで起きたのがウィリアム・ミラー(1782-1849)の再臨運
動です。ミラー派(Millerite)とよばれる彼らは、キリストの再臨を1843年、
1844年、1847年などと予言しました。

ミラー自身も終わりの日は1843年3月21日~1844年3月21日だと予言しましたが、
最終日の1844年3月21日になっても何も起こらなかったのでミラーは自分の過
ちを認めました。ミラー派は衰退し、幾つかのアドベンティスト(再臨派)の
派閥に分かれていきます。これらの派閥の中から現在の、アドベンティスト派、
セブンスデー・アドベンティスト派、ものみの塔聖書冊子教会が形成されてい
きます。


ラッセルは1876年(明治9年)、23歳の時に、アドベンティスト派の牧師でミラー
派のネルソン・バーバーの聖書解釈に共感し、ハーバーと協力関係に入り「1874
年(明治7年)にイエス・キリストは『見えない形で』再臨した」という説を受け
入れます。


11歳の頃から父親の経営する男性用服飾品のチェーン店の経営を手伝ってい
たラッセルはバーバーに資金援助を行い、1877年(明治10年)、25歳の時にバー
バーと共著という形で「三つの世界」という本を出版します。(執筆はバーバ
ー)ラッセルとバーバーは意見対立で別れる1879年(明治12年)まで協力関係を
続けました。


1879年(明治12年)、27歳のラッセルはアドベンティスト派を離れ、雑誌「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」(Zion's Watch Tower and Herald of Christ's Presence)を創刊しました。これが現在まで延々と続く「ものみの塔」誌の始まりです。


1881年(明治14年)、29歳の時にラッセルは「シオンのものみの塔冊子教会」
という非営利法人を設立します。その後ペンシルバニア州の法律に基づいて、
1884年(明治17年)、32歳の時に、現在の「ものみの塔聖書冊子協会」の前身
である「ペンシルバニアのものみの塔聖書冊子協会」が法人組織として登記
され、組織化されたものみの塔の基礎が確立されました。




ラッセルはアドベンティスト派やミラー派の教理とフリーメイソンやピラミッド学などのオカルト教理を融合
させ、独自の聖書解釈により地獄はない
永遠の刑罰はない
イエス・キリストは神ではない
三位一体はまちがいで、エホバ神のみが唯一の神である


と言う、従来のキリスト教の教理とは全然違う、現在のものみの塔の教えの根
幹となる教理を作りあげ、現在に至ります。



1913年(大正2年)、61歳の時にラッセルはカナダの牧師を名誉毀損で訴えます。

裁判の証言に立ったラッセル牧師は相手側弁護士の尋問により、聖書の専門教
育を受たことがないので、聖書の専門家が正しい聖書解釈をする上での基本で
あるギリシャ語とヘブル語が理解できない、無資格の聖職者だということがば
れてしまいました。

つまりものみの塔という宗教は、中卒の裕福な若者が、20代中盤の明治時代
に勝手に作りあげた宗教だったわけです。


ものみの塔の特殊性として、予言がはずれようが、矛盾した教理を発表しよう
が、絶対に自分の間違いを認めないという伝統があります。中卒のラッセルは
自分の作った終末予言がはずれてもそれを絶対に認めず屁理屈で強弁しました。
現在のものみの塔も何かあると絶対に間違いを認めずに屁理屈で強弁します。


この強弁を、高学歴者(聖書の専門家)に対する、中卒(聖書の素人)の学歴
コンプレックスから来る議論と考えればわかりやすいと思います。素人と専門
家が議論した場合、素人は屁理屈を使って強弁しないと専門家に簡単に論破さ
れてしまいますから、何が何でも議論に負けないためには屁理屈と強弁を最後
まで押し通すしかありません。そして議論に負けそうになったら沈黙する。こ
のやり方なら絶対に議論に負けません。


ものみの塔は誕生以来、ミラー派を真似て次々に終末予言を発表して信者拡大
を目指しましたが、その予言を全てをはずしました。ただ一つの例外として、
第一次世界大戦勃発の年である1914年(大正3年) の年を当てたので、今でもそ
れをさかんにアピールしています。(はずれた予言については言いません)


■JW初代会長ラッセルは、フリーメイソンのオカルト崇拝とかかわりが
あったとされており、聖書解釈にオカルト的なピラミッド学を持ち込んだ
事実があります。『聖書研究シリーズ』

そして、ラッセルは死の間際に「フリーメイソンの服装」を要求した事実がものみの塔1916年12月1日号365-366頁に書かれています。(復刻版6005頁





http://www.jwic.info/history2.htm
エホバの証人の創始者ラッセルと勢力を拡大させたラザフォードの私生活と晩年

ラッセルの私生活

新興宗教の創始者にはスキャンダルがつきものである。一般的に言って個人のスキャンダルはその個人の業績とは離して考察されるべきものであろう。しかし、こと神の代弁者、神の仲介者を自称、他称する宗教指導者に対しては、そのプライバシーにもメスがいれられるべきであろう。なぜなら神の代弁者の資格にはその人間全体の評価が関わらざるを得ないからである。

ラッセルの私生活については彼と妻マリア・ラッセルとの長年にわたる離婚裁判の記録の中にかなり詳細に記録されている。この中にはラッセル夫婦の異常な性生活、ラッセルの暴君的な夫としての態度、マリアの性的不満、ものみの塔誌編集の上でマリアが自由を与えられなかったこと、マリアが夫を中傷する文書を大々的に配布したこと等が含まれている。この夫婦の泥仕合ともいえる長年の家庭不和と、数を重ねた離婚調停は1894年から始まり1908年の離婚成立まで延々と続く。この中で明らかにされたラッセルの夫婦関係の詳細をどう評価するかは、確かにどちらの側から見るかで大きく違うであろう。なたとえば、ものみの塔協会公式の歴史書である『エホバの証人 神の王国をふれ告げる人々』では、これはキリスト教世界の僧職者がラッセルの評判を傷つけるために作り上げたこととして信者に教えている。

しかしどちらの側に立つとしても一つだけ否定できないことは、この「聖書研究者」という名前の同じ宗教(当時まだ「エホバの証人」という名前は使っていなかった)の信者であり、一方は「神の仲介者」としての最高権威者である夫と、他方はその夫を表向きには全面的に助け、ものみの塔誌の編集を手がけてきた妻とが、私生活の面ではどちらに非があるにせよ、この長年にわたる泥仕合の家庭不和を続けていたという事実は誰も否定できないであろう。神の前に立つ兄弟姉妹としての、また神が絆を定めた夫婦としての神の愛による和解ができず、泥仕合の末に家庭の破局に終わる、この宗教の創始者で最高権力者であったラッセル夫婦の姿は、その後この宗教が世界中にもたらした家庭破壊の数々のひながたとして、この宗教の根本的な問題点をその最初期から提示していると言えないであろうか?ちなみに次の二代目会長ラザフォードもその異常な夫婦関係で知られている。

5)内外の敵

カリスマ的宗教指導者には敵がつきものである。ラッセルもその例外ではなかった。1880年、彼は「新しい真理」として奇妙な贖罪の教義を打ち出した。それは14万4千人の彼の追随者はキリストによって贖罪をうけるのでなく、キリストと一緒になって贖罪の業を行うというものであった。言い換えれば14万4千人には贖罪をしてくれる仲介者がなく、彼らはキリストの体として一緒に贖罪の業をするというものである。ラッセルはまた、奇妙な誓いを自分がたて、1908年には彼の追随者たちにも同様の誓いをすることを求めた。その誓いの中には「私は異性に対し公的な場でふるまうのと全く同じ様に私的な場でもふるまう」という項が含まれていた。著名なラッセルの追随者の一部は公然とラッセルの行動に疑問を投げかけた。いくつかの会衆とその主立った指導者たちは「新約信奉者」というグループを形成し、もっと正当的なキリストによるすべての者の贖罪を信奉してラッセルから分派した。1909年のことであった。約一万人いた「聖書研究者」のなかの数百人が分派したと伝えられている。

一方外部においてはラッセルは、彼のし烈なキリスト教会聖職者に対する攻撃の結果、多数の敵をキリスト教各派の中に作っていった。その先頭に立っていたのはカナダ・バプテスト教会のロス牧師であった。ラッセルは自分の離婚問題とそれに伴う誹謗中傷以外にも、1903年から1913年にかけては裁判ざたの連続であった。それらは名誉毀損、虚偽などの罪状であった。

6)ラッセルの晩年

1914年はラッセルの予言の最も重要な年であった。この年は現在のエホバの証人の教義にとっても鍵となる年なのであるが、当時のラッセルとその追随者たちにとっては違った意味で重要であった。彼らは1914年に「異邦人の時」は終わりを告げこの世は破壊される(ハルマゲドン)、ラッセルとその追随者たちは天にとりあげられ、キリストの千年統治が開始する、というものであった。これだけの大きな予言が成就するのを待つのに神経の高ぶらないものはいないであろう。ラッセルも例外ではなかった。彼はすでに、この年がいかに確実なものであるかを何度も繰り返して述べてきた。たとえば、「時は近づけり」の中で、彼は「どんなに遅れてきたとしても不完全な人間の統治は1914年を過ぎることはありえない」と書いている。しかしその1914年が近づくと、彼はいくつかの表現を使ってその予言がその通りに起こらなかった場合の言い訳けを述べている。たとえば、自分は霊感を受けた予言者ではない(だから間違えることもある)、たとえ予言が外れても警告を与えただけで意味がある、世界の無政府状態とキリスト教会の崩壊は1914年の後に起こるかもしれない(最初はこれらが1914年のまえぶれとして起こると述べていたが、1914年が間近に近づくとこれも変えざるを得なくなった)等等。

しかしそれでも1914年秋に第一次世界大戦が勃発すると、ラッセルは「ついに来るものが来た」と確信した。彼はその秋「異邦人の時」は終わり「今はハルマゲドンの中にいる」と考えた。彼らが天に取り去られないことなどどうでもよいかのよに、ラッセルの追随者たちも予言は成就したと確信した。ラッセルは1914年から1916年にかけて勢力的に宣教活動を続け、第一次世界大戦は1918年のハルマゲドンの戦いで終わり、彼らは天に連れ去られるとふれまわった。しかし思いがけないことが起こってしまった。1916年10月31日、ラッセルは宣教中の汽車の車中で病死してしまったのである。これは追随者の間で最も解釈に困る事件であった。彼らはあとほんの二年たらずのうちにラッセルを中心にして天に取り上げられるはずだったからである。混乱はそれだけではすまされない。地上の政府がみな粉々に打ち砕かれる代わりに第一次世界大戦は1919年、ベルサイユ条約により平和に解決してしまったのである。

ラッセルの死後、「聖書研究者」の宗教活動はほとんど停止せざるを得なかった。上に述べたような中核になる教義の崩壊、戦争非協力による各政府や怒った大衆による迫害、そして後継者同士の内部争いが次々に起こったからである。






ラザフォードの私生活

歴史第一部のラッセルの私生活の項でも書いたが、神の代弁者を自称し、自ら作り上げた「真理」を「エホバの真理」として広めていった独裁的宗教指導者、ラザフォードの私生活は、ラッセルの私生活と同様はっきりと公開されるべきものであろう。このような高い地位に自分をおく人間にとってはその個人のプライバシーも慎重に検討されなければならないであろう。

先ず非常に興味深いラザフォードの個人問題に、その結婚生活があげられる。彼もまたラッセルと同様、早い時期にその妻マリーとの別居生活に入り、それ以後生涯、正常な夫婦生活を体験することはなかった。このように第一代、第二代の創始期の会長が二人とも正常な家庭を維持することが出来なかったことは、果たして偶然であろうか?この宗教が現在までエホバの名の元に多くの夫婦を引き裂いていった歴史を見る時、この夫婦関係の軽視はこの二人の会長に始まるこの宗教の伝統となっていった。たとえ他のものみの塔の出版物がどのように夫婦関係を重視する記事を載せても、実際に個々のエホバの証人とその指導者が夫婦生活をどう見ているかを観察するとき、それらは全くむなしいきれい事に過ぎなくなるのである。なお、彼には一人息子がいたが、この息子はエホバの証人の家庭には珍しく父親の率いる宗教には全く関心を示さず、結局エホバの証人にはならなかった。

ラザフォードのこの夫婦関係の破綻は彼の一貫した女性差別とフェミニストへの侮蔑に裏打ちされている。彼はクリスチャンの男性が、当時アメリカ社会で主流となっていた「女性第一」の習慣に迎合するのは道徳的に間違っていると説いた。

ものみの塔協会は常に必死でラザフォードのアルコール中毒を隠そうとしてきた。しかしこれには余りに多くの証言や事実が記録されており、もはや誰もこれを否定する者はいなくなった。多くの当時のエホバの証人たちがラザフォードが泥酔のために講演ができなくなったのを目撃している。最も重要な記録は当時のカナダの支部監督であったウォルター・ソルターが1937年に発表した公開質問状であろう。この中で彼は多数のビール、ウィスキー、ブランデーを箱単位で協会の資金で購入し、カナダから密かに会長個人の使用のために送っていたことを明らかにした。ラザフォードは一般の信者が家から家への宣教活動に追われている間に、自分自身は一切このような活動に加わる事無く(会長としての職務が多忙で家から家への宣教は出来ないというのが表向きの理由であったが)、ブルックリンの本部の奥深くで、何人かの側近を除いて一切彼の近くに来させないようにした上で、これらのアルコール飲料を飲みまくっていたという。

ラザフォードの生活は当時の大恐慌の嵐の中で、全く世の中の深刻な不況の影響を受けなかったかのように贅沢をきわめた。彼の主な住居はニューヨークのアパートであったが、これは当時の財閥の幹部が住むのに相当する豪華なものであった。その他に彼は協会の資金で第二の住居をステイテン島の協会のラジオ放送局の中に、更に同じくステイテン島の中に別荘を、またロンドンとドイツのマグデブルグにも彼専用の住居をそれぞれ用意させていた。しかし何と言っても最大の住居は、協会の資金でカリフォルニア州サンディェーゴに購入したベス・サリムという名の豪邸である。これは当初、1925年にアブラハム、イサク、ヤコブ等の聖人達が復活してくるという奇妙な予言に基づいて、これらの聖人達を迎えいれて住まわせるために購入された。実際この別荘はラザフォードがこれらの聖人から信託を受けた形で名義登録された。この別荘にはこれらの聖人が使うという目的で豪華なキャデラックの車が二台がそなえつけられた。これらの聖人が予言に反して1925年に復活しなかった後は、この別荘はもっぱらラザフォードの豪華な第二の住まいとなったのであった。

12)ラザフォードの晩年と死

ラザフォードの死の数年前に第二次世界大戦が始まる。これもまた偶然の皮肉以上と思われるが、彼も第一代会長ラッセルが第一次世界大戦をハルマゲドンの始まりと信じたのと同様、第二次世界大戦がハルマゲドンに至ると信じ込んだと言われる。

晩年のラザフォードが1941年セントルイスの大会に現れた様子は、当時19歳であった若き日のレイモンド・フランズの目撃するところであった。その大会の最終日、ラザフォードは5歳から18歳の子供たちを最前席に座らせて、もうすぐに来るアブラハム、イサク、ヤコブ等の聖人達が復活してくる日まで彼らに結婚を延ばすように、そうすればその日にはふさわしい相手が決められるであろうと説いた。この大会で彼は「子供」と題する本を発表したが、間近に近づいたハルマゲドンに備えて結婚を延ばすことがその主要なテーマであった。同年9月15日のものみの塔誌の記事には「ハルマゲドンまであと数ヶ月」という文句が載った。この会長の忠告を忠実に守って結婚をしなかったエホバの証人は数え切れないほどいた。彼らの多くはいつまで待っても実現しないラザフォードの予言を待ち続け、婚期を逸し一生正常な夫婦、家庭を持たないで現在では晩年を迎えているのである。

そのラザフォードはと言えば、彼はこの時すでに末期の癌にむしばまれていた。その死を予想してか、また自分の目の黒いうちにハルマゲドンを見届けたいと言う希望のあらわれか、彼は晩年ますますハルマゲドンの接近を強調した。しかしその彼も癌には逆らえなかった。1942年1月8日、彼はサンディェーゴのベス・サリムの別荘で息を引き取る。皮肉なことに身近に迫っていたのはこの世の終わりのハルマゲドンではなく、彼自身の人生の終わりだったのである。ここに現代のものみの塔宗教の多くの教理と組織を築き上げ、現代のエホバの証人に対し初代会長をはるかにしのぐ影響力を持つ第二代会長ジョゼフ・ラザフォードの時代は終焉を告げる。
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