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日航機墜落/ 特殊部隊は墜落現場で何をしたか!


池田昌昭氏の恐ろしい仮説
「自衛隊を動かしている存在」にとってさらに都合が良いことは、全員が死亡することでしょう。生存者――とくにすべての事情を知る機長をはじめとする操縦クルーに生存者がいることは、「自衛隊を動かしている存在」にとって、致命的になります。
生存者はいない方が良い。

ところが実際はかなりの生存者がいた。(M氏によれば、4~50人。)
墜落現場に一番早く来た民間人M氏の証言

特殊部隊は生存者に何をしたのか!




http://intec-j.seesaa.net/article/53983815.html

特殊部隊は墜落現場で何をしたか(EJ第1063号)
 JAL123便が墜落したのは、午後6時56分です。それから約1時間後に、上野村三つ岐というところに自衛隊の一団が集結しはじめたのです。その数50人~100人―彼らは何かの合図を待っているように静かに待機していたのです。1985年8月12日のことです。
 ちなみに、墜落現場から一番近い自衛隊の基地といえば、長野県松本市の陸上自衛隊第13普通科連隊、陸上自衛隊第12師団司令部のある群馬県相馬原の部隊です。しかし、ここに集まってきていたのは、そのいずれでもないのです。
 この上野村三つ岐は群馬県にあり、神流川主流に沿って浜平鉱泉・諏訪山方面から御
巣鷹山付近へも、または長野県境のぶとう峠方面へもいける交通の要衝に当たります。
とくに群馬県側から御巣鷹山付近に行くには最適の待機地点といえます。
 午後9時30分過ぎになって、JAL123便の墜落現場――御巣鷹山方向から信号弾が上がったのです。その信号弾に呼応して、上野村三つ岐に待機していたその自衛隊とおぼしき一団は整然と移動を開始したのです。そして、御巣鷹山の墜落現場に入っていったというのです。
 この時刻は、米軍のC-130と救難ヘリが横田基地からの連絡により、乗員・乗客の救出を断念して引き上げた時刻と一致するのです。つまり、米軍が去るのを待っていて、信号弾を打ち上げたと思われます。彼らはそこで何をしたのでしょうか。はっきりしていることは、救助ではないことです。
 その一団の行動は整然として無駄がなく、特殊訓練を受けた部隊のように見えたといいます。おそらくその一団は自衛隊の秘密部隊であると考えられます。どこの国にもそういう部隊は存在し特殊任務を遂行するのです。
 もうひとつ重要なことは、JAL123便が墜落した御巣鷹山一帯が、自衛隊特殊部隊の秘密訓練地帯になっていることです。したがって、墜落場所からそう遠くないところにその秘密部隊の基地があったとしても不思議はないのです。
 それにしても、2機の自衛隊機がJAL123便を強引に御巣鷹山付近へ誘導したことといい、墜落場所へ行く絶好の地点に少なくとも50人を超える人数を午後8時(墜落の1時間後)に集めていることといい、そこに何か意図的というか計画的なものを感じるのです。
 池田昌昭氏によると、その秘密部隊は、墜落現場で、機体の前部・中部の様子を入念に調べ、何やら作業をしていたそうです。そして、スゲノ沢の機体後部付近で、無線交信妨害電波を出しながら、何かをやっていたといわれます。その時点ではかなりの生存者がいたと考えられますが、そういう生存者の救出は一切行ってはいないのです。まさに見殺しです。
 いったいこの特殊部隊は何をしていたのでしょうか。
 JAL123便が御巣鷹山に墜落した直接の原因について、池田昌昭氏は恐ろしい仮説を立てています。それは、自衛隊機のミサイル発射によってエンジン部分が破壊されたことによる墜落という仮説です。あまりにも恐ろしい、考えられない推測であり、にわかには信じられない思いがあります。
 しかし、仮にそうであったとするとツジツマが合ってくるのです。自衛隊――いや自衛隊は一応軍隊組織であり、上の命令によって動く存在であるので、「自衛隊を動かしている存在」-つまり、政府としては、どうしても隠さなければならないものがあったのです。
 それは、日米でひそかに開発を進めていた巡航ミサイル―――それ自体が極秘であるのに、こともあろうにその演習用ミサイルが、民間機であるJAL123便の垂直尾翼にぶつかってそれを破壊してしまったことです。
 しかも、その痕跡がはっきりと破壊された尾翼の跡に残っているということが緊急発進した自衛隊機によって確認されているのです。もし、JAL123便が横田基地や羽田空港などに着陸を試みたとして、大勢の人が亡くなるようなことになったら、その原因が白日の下に晒されることになる――そんなことになったら政府や自衛隊は持たないと考えて不思議はないのです。
 この場合、「自衛隊を動かしている存在」によって一番都合が良いのは、JAL123便が、人が容易には近づけない険しい山岳地帯に激突して、機体がこなごなに破壊され、垂直尾翼の痕跡もろとも、すべてが隠蔽されることだと思います。
 そのため、JAL123便を方向転換させ、自衛隊の特殊部隊の演習場である御巣鷹山付近の山岳地帯に誘導したのです。しかし、JAL123便の機長は、それでも必死の不時着を試みようとしているので、ミサイルを発射して墜落させたのではないかというのです。
 「自衛隊を動かしている存在」にとってさらに都合が良いことは、全員が死亡することでしょう。生存者――とくにすべての事情を知る機長をはじめとする操縦クルーに生存者がいることは、「自衛隊を動かしている存在」にとって、致命的になります。
 生存者はいない方が良い――これが米軍の救出の申し出をあえて断り、墜落場所が特定されているにもかかわらず、直ちに救出しようとしなかった理由であったとしたら、
これほど人の道に外れる行為はないといえます。
 仮にそうであったとしたら、墜落現場での自衛隊特殊部隊の任務は、機体の墜落状況の調査、ミサイルで粉砕されたあらゆる痕跡の回収――とくにミサイル痕が残っている遺体の回収、垂直尾翼の痕跡の除去などになります。
 とくにコックピット内は焼き尽くされ、何もなかったし、操縦クルーの遺体はなく、ただ歯が残されているのみという状況であったといわれます。いかに激しく地面にぶつかったとはいえ、遺体の一部は残るはずであるし、コックピット部分には燃料タンクはないのに焼け爛れていたといわれます。それは、まるで火炎放射器で焼いた跡のようであったといいます。機首前部付近では「遺体がない」という声が相次いだといいます。



http://intec-j.seesaa.net/article/56209484.html

JAL123便ミサイル撃墜の証拠と証言(EJ第1076号)
 それでは、JAL123便に対して、どのようにしてミサイルが撃ち込まれたのでしょうか。そのあたりの状況について説明しましょう。
 JAL123便が墜落する前に、次の3機の自衛隊機が周辺を飛行していたのです。
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          F-4EJ戦闘機 ・・・・・ 2機
          F-15J戦闘機 ・・・・・ 1機

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 JAL123便を御巣鷹山方面に強引に誘導したのは、2機のF-4EJ戦闘機です。しかし、JAL123便に対してミサイルを撃ち込んだのは、あらかじめ、在空していたとみられるF-15J戦闘機なのです。F-4EJとF-15Jは、ともに米国が開発した要撃戦闘機ですが、F-15JはF-4EJの後継機です。添付ファイルに写真を付けてあります。
 そのときJAL123便は、何とか山中に不時着しようとしていたと考えられるので
す。山への不時着ですから、ほとんどは絶望的ですが、かなり多くの生存者が出ること
も考えての機長の判断であると思われます。機長をはじめとする操縦クルーは、何が起
こっているのかが一番よくわかっていたと思われます。そのため、1人でも多くの生存
者を出したいと考えたのでしょう。
 しかし、それを隠蔽しようと考える側からすると、少なくとも操縦クルーは生かしてはおけないと考えるはずです。そこで、F-15J戦闘機は、JAL123便が稜線を越えて、人目につきにくい山かげに入るのを見極めて、2発のミサイルを発射したのです。このとき要撃戦闘機とミサイルの航跡を地上から目撃されないように稜線を縫うように実に巧妙にJAL123便の後部にまわり、ミサイルを発射しています。
 ミサイルは、赤外線追尾方式であり、1発目はJAL123便のエンジン部分に命中したとみられます。ミサイルの爆破エネルギーは機体の前部と中部を貫通し、その付近の乗客・乗員を機内で粉砕したのです。JAL123便は右旋回しながら、火に包まれながら、真っ逆様に急降下したのです。これを確認して要撃戦闘機は、2発目のミサイルを発射し、とどめをさしています。
 しかし、JAL123便の最後の様子は、地上からかなり多くの目撃情報があるのです。墜落事故の翌日、8月13日の埼玉新聞の見出しは、「夕やみに“火の玉”」とあります。埼玉県浦和市に住む住民と長野県の川上村住民は次のようにいっています。
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      マンションのベランダから西空を眺めていたところ、突然雲の透き間から太陽が射すようなオレンジ色の閃光を見た。双眼鏡で覗くと両側から青、真ん中から赤い光を発した大型機が北の方に消えた。――浦和市に住む住民の目撃証言
埼玉方面から飛んできた飛行機が赤い炎をあげ、やがて黒い煙を残して南相木村の群馬県境に消えた。
――長野県川上村住民
ゴーンという音をさせながら、航空機が低く飛んでいた。長野、山梨、埼玉県境の甲武信岳方面から飛んできて上空を右に旋回して北東の方に行った。まもなくして、雷が落ちるようなバリバリという大音響がし、二度ほどパッパッと光った。そのうちネズミ色のキノコ雲が上がった。墜落したなと思った
。――長野県川上村住民
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 垂直尾翼を破壊されても、エンジンには支障のない飛行機が火を吹くはずはないのです。しかし、「オレンジ色の閃光」「赤い炎」という証言があり、「パッパッと光る」という証言まであるのです。ちょうど事故の日に、上野村の民宿に泊まっていた東京の会社員も「神流川上流の山あいがピカピカと二度光った」と証言しています。 「パッパッと光る」と「ピカピカと二度光った」については、ミサイル弾がJAL123便に命中したときの閃光と考えることができます。ミサイルが空中で爆発するときは、ミサイルに装填されている火薬が一挙に爆発するために、空気中の分子と猛烈に衝突を起こすのです。そのさいに空気と摩擦を起こし、ちょうど稲妻に似た放電現象が起きるのです。それが、ピカッと目撃された閃光と考えられます。けっして、墜落したときの閃光ではないのです。
 長野県南相木村中島地区の住人3人の証言に次のようなものがあります。
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飛行機が飛んで行った後から、流れ星のようなものが近くを飛んでいるのが見えた。――長野県南相木村中島地区の住人3人
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 ここで「流れ星のようなもの」とは明らかにミサイルの航跡であると考えられます。
 機体がミサイルで爆破されたのではないかと思われるもうひとつの証拠と考えられるのは、乗客・乗員の遺体の損傷があまりにもひどかったということです。520人のうち、本当にきれいな遺体は10体程度といわれています。
 とくに機体の前部については、飛行機らしい形をとどめておらず、アルミホイルを千切ってばらまいたようになっているのですから、遺体もただの肉片になってしまっているのです。山に激突したとはいえ、あれほどにはならない――と専門家もいっているのです。それでいて、機体後部の乗客・乗員のそれは粉砕されていないのです。生存者も機体後部から見つかっています。
 それに機体前部では、歯や肉片といえども遺体が発見されていないケースも多々あったといわれています。おそらくミサイルの痕跡を示す遺体はすべて自衛隊の特殊部隊によって持ち去られたのではないかと考えられます。・・・[御巣鷹山事故の謎/23]


http://74.125.153.132/search?q=cache:mr3tQU577C4J:www4.zero.ad.jp/fs400/_osutaka/log/log02.html+%E3%80%80%EF%BC%A6%EF%BC%8D%EF%BC%91%EF%BC%95%EF%BC%AA%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F%E3%80%80%E5%BE%A1%E5%B7%A3%E9%B7%B9%E5%B1%B1&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
事件当時の中部地方に配備されていた自衛隊機は以下の通りです。
小松
・303飛行隊(F-4EJ)
・306飛行隊(F-4EJ)
百里
・204飛行隊(F-15J)
・305飛行隊(F-4EJ)
・501飛行隊(RF-4E)
注:204飛行隊はこの年の3月にF-15J装備として新編成されている。
事件当時アラートには305飛行隊が就いていた。
 




http://74.125.153.132/search?q=cache:tDG8qNxEzQIJ:www.geocities.jp/at_mocha/ja123/ja123time.htm+%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%97%E5%8D%94%E4%BC%9A+%E3%80%80%E6%97%A5%E8%88%AA%E6%A9%9F&cd=11&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

表.1 経過の出典

文春 : 『週刊文春』9月28日号(1995)「生存者を見殺しにした空白の14時間」
朝日文庫 : 「日航ジャンボ機墜落」朝日新聞社会部編(朝日文庫)
新潮 : 日航機墜落の御巣鷹山「アイソトープ騒動」『週刊新潮』昭和63年8月11.18日号
疑惑 : 角田四郎著 『疑惑 JAL123便墜落事故』(早稲田出版)
年月日 時刻 内容 出典
機内 1985/8/12 18:12 羽田を離陸
機内 1985/8/12 18:24 機体後部に爆発音を聞く 文春
機内 1985/8/12 18:25 高浜雅己機長が東京航空交通管制部(東京ACC)にトラブル発生を告げる 朝日文庫P5
米軍機内 1985/8/12 18:51 C-130で「横田基地が123便に緊急着陸の許可を出したのが聞こえた」 文春
機内 1985/8/12 18:56 墜落推定時刻 文春
位置 1985/8/12 18:56 東京ACC(運輸省航空交通管制部)のレーダーから123便の機影消える。(墜落推定時刻)
位置 1985/8/12 18:57 (C-130の)「レーダーから消えた」 文春
現地 1985/8/12 19:19 米軍のC130機が大きな炎上物を発見した。「1919、ラージ・ファイア、フロム・ヨコタ、305(度)34(マイル)」 朝日文庫p29
情報 1985/8/12 19:20 埼玉県・入間の航空自衛隊中央救難調整所(RCC)を経て、米軍輸送機C130からの連絡が、防衛庁空幕に入った。 朝日文庫p35
現地 1985/8/12 19:20 C-130乗員が墜落現場発見 文春
位置 1985/8/12 19:21 百里基地のF4が現場上空に達した 文春
位置 1985/8/12 19:21 茨城県・百里基地を緊急発進していたF4ファントム戦闘機、2機が現場上空に到着した。やはり米軍機同様、タカンによる現場位置の報告をした。いずれも長野、群馬、埼玉の三県境付近(御巣鷹の尾根もここにある)で炎を確認したものであった。
情報 1985/8/12 19:30 航空幕僚監部広報室にC130の情報が入る。横田から305度、34マイル 朝日文庫p29
位置 1985/8/12 19:30 直後 航空自衛隊F4EJ戦闘機式地二尉からの報告「炎を確認、横田タカン(TACAN=戦術電波航法標識)から300度、32マイル」 朝日文庫p35
位置 1985/8/12 19:40 ごろ C-130は発見から約20分上空600メートルで旋回し正確な位置を割り出し横田基地に連絡する 文春
組織 1985/8/12 19:45 藤波官房長官が首相公邸に戻る。 朝日文庫p37
組織 1985/8/12 19:45 警察庁「総合対策室」を設置 朝日文庫p37
組織 1985/8/12 19:47 中曽根首相が静養先の軽井沢から首相公邸に戻る。 朝日文庫p37
組織 1985/8/12 19:50 長野県警 臼田署内に「日航機墜落事故対策本部」を設置。 朝日文庫p37
組織 1985/8/12 19:50 長野県警 北相木村役場内に「日航機墜落事故現地指揮本部」を設置。 朝日文庫p37
組織 1985/8/12 19:50 長野県警 警備二課内「日航機墜落事故対策連絡本部」を設置。 朝日文庫p37
組織 1985/8/12 19:54 百里救難隊のV107ヘリが離陸 朝日文庫p37
組織 1985/8/12 20:00 群馬県警が警備二課に「日本航空機行方不明事故対策室」を設置。 朝日文庫p60
組織 1985/8/12 20:16 藤波官房長官が首相と事故の対応策について協議し政府対策本部の設置を決めた。 朝日文庫p60
放射性物質 1985/8/12 20:16 ごろ 警察庁に日本アイソトープ協会から「事故機にラジオアイソトープ92個が積まれている」との連絡が入る。 朝日文庫p60
位置 1985/8/12 20:21 長野県警臼田署のパトカーから「埼玉県と群馬県境あたり(峠から見て南東の方向)に黒煙が見える」 朝日文庫p60
現地 1985/8/12 20:30 ごろ このときまでC-130は上空を旋回 文春
組織 1985/8/12 20:33 是枝航空長から航空自衛隊への災害派遣要請があった。 朝日文庫p38
組織 1985/8/12 20:35 藤波官房長官が政府対策本部の設置と第一回会合の開催を指示。 朝日文庫p60
現地 1985/8/12 20:40 航空自衛隊・百里基地の航空救難隊のヘリコプターKV-107機(バートル)が現場上空到着。
位置 1985/8/12 20:42 自衛隊ヘリV107が現場確認「横田タカンから299度、35.5マイル」 朝日文庫p63
現地 1985/8/12 20:50 C-130は海軍の救助隊のヘリの明かりを確認 文春
現地 1985/8/12 21:05 ごろ ヘリは「煙と炎が濃過ぎて着陸できない」といってきた。 文春
現地 1985/8/12 21:06 朝日新聞社の取材ヘリが現場の炎を確認。このとき炎の上で超低空飛行をしている捜索ヘリも見ている。これについては一九九五年になって米海兵隊救難チームのヘリであことが判明した。 朝日文庫p71
現地 1985/8/12 21:20 司令部よりC-130及び海軍に帰還の命令が出る 文春
現地 1985/8/12 21:20 C-130の上空900メートル上空に日本の飛行機が旋回しているのを認めた。 文春
1985/8/12 21:30 群馬県警が「日本航空機行方不明事故対策本部」を設置。 朝日文庫p62
1985/8/12 21:30 陸上自衛隊に災害派遣出動要請が出る。 朝日文庫p79
位置 1985/8/12 21:39 埼玉・長野の両県警のパトカーが三国峠から西北西の方向に赤い炎を確認する。 朝日文庫p80
位置 1985/8/12 21:59 自衛隊空幕から運輸省運用課に現場の位置が「長野県北相木村御座山北斜面」との連絡が入り捜索隊の多くがこの方向に向かった。この位置は千葉県嶺岡山のレーダーから消えた位置(北緯36度02分、東経138度41分)であった。 朝日文庫p80
組織 1985/8/12 22:30 政府対策本部が設置される。本部長、山下運輸相。副本部長は二人の官房副長官と運輸省の政務、事務両次官。本部員に、内閣審議室長、厚生省社会局長、運輸省航空局長(代理)警察庁警備局長、総務庁交通安全対策室長、防衛庁防衛局長、自治省消防庁長官、科学技術庁原子力安全局長、国土庁防災局長 朝日文庫p81
放射性物質 1985/8/12 22:30 政府事故対策本部にアイソトープが詰まれていたことが報告された。 新潮
組織 1985/8/12 23:00 首相官邸で政府対策本部の第一回会合が開かれる。 朝日文庫p81
位置 1985/8/12 23:30 長野県警は御座山の捜索結果から「現場は群馬県内と判断している」との見解を発表する。 朝日文庫p82
情報 1985/8/12 23:35 朝日新聞社のヘリ「ちよどり」が二度目現場に着く。「はるか下方に自衛隊機と思われるヘリ一機。青と赤のライトが点滅している。」 朝日文庫p89
位置 1985/8/13 0:15 朝日新聞社のヘリ「ちよどり」が引き返すことにする。二回目の計測をしたが一回目と変わらなかった。 朝日文庫p89
1985/8/13 0:36 KV-107が埼玉県入間基地を離陸する 朝日文庫p100
放射性物質 1985/8/13 1:00 ごろ 陸上自衛隊東部方面総監部に陸幕からアイソトープの第一報が伝えられ、その内容は十二師団に伝えられた。 新潮
組織 1985/8/13 1:00 群馬県警が上野村役場に現地対策本部を設置 朝日文庫p100
位置 1985/8/13 1:00 KV-107が「入間から291度方向、36.3マイル」の測定。しかし「実際には上野村にいた警察車両らしい車の位置をぶどう峠と誤認した。「ぶどう峠から210度・・・」はこの情報 朝日文庫p100
位置 1985/8/13 2:00 すぎ 防衛庁が「長野県南相木村御座山南斜面、頂上から1キロ」の情報を流した。(ぶどう峠から210度、3マイル) 朝日文庫p99
位置 1985/8/13 4:39 航空自衛隊救難ヘリKVー107が群馬県上野村の御見鷹山近くの尾根に激突している日航機の残骸を発見。
位置 1985/8/13 4:39 墜落地点の確認 文春
放射性物質 1985/8/13 4:50 科技庁が「アイソトープは人体に支障なし」を発表 疑惑P38
1985/8/13 4:58 関東地方日の出 疑惑P38
位置 1985/8/13 5:05 東部航空方面隊第十二飛行隊のヘリ偵察によって遭難現場が確認される。 新潮
位置 1985/8/13 5:10 V-107ヘリより「三国山西3キロ、扇平山北1キロ」と現場位置を通報(これは長野県側になる) 疑惑P38
位置 1985/8/13 5:10 自衛隊立川基地からのOH6型へりが現場を測定「御座山東方約5キロ」(これはぶどう峠にあたる) 疑惑P38
位置 1985/8/13 5:37 長野県警のヘリも現場を確認する。
1985/8/13 5:37 長野県警のヘリ「やまびこ」が「御巣鷹山南南東約2キロ、県境から東方700メートルに機体散乱。現場は群馬県側」と通報。 疑惑p39
現地 1985/8/13 8:49 陸上自衛隊第一空挺団(習志野)の部隊がヘリから現場への降下を始める。
現地 1985/8/13 8:49 のあと 測定機材をヘリで運び調べる(放射能について) 新潮
現地 1985/8/13 8:49 陸上自衛隊の救援部隊が初めて現場に下りた 文春
現地 1985/8/13 9:25 7時55分に長野県警のレスキュー隊員が現場から2~3キロ下流の沢にヘリから降下し、水平尾翼の落下現場に到着する。 朝日文庫p145
現地 1985/8/13 9:30 上野村消防団の救助隊も現場到着 朝日文庫p145
現地 1985/8/13 10:15 群馬県警機動隊も到着。 朝日文庫p145
現地 1985/8/13 10:54 生存者の発見 文春

更新日 99/08/12
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御巣鷹山日航機JAL123便 PM9時20分に現れた日本の救援機の正体は?

マイケル・アントヌッチ航法士はPM9:20最初の日本の救難機が到着、現場を旋回しているのを確認し帰還しています。
その日本の救難機はそれ以降ずっと現場に留まったのか、記録にはありません。

21時06分に朝日新聞社の取材ヘリが見たのは、下記の米軍ヘリUH-1と推測されます。
朝日新聞社の取材ヘリは日本の救援機を見ていないと思われます。

PM9:20に現れた最初の日本の救難機の正体が不明であり、民間人で現場に行ったM氏はPM21時から、墜落現場を探すために、ずっと聞いていたヘリコプターの音はこの日本の救援機ではないでしょうか。(ヘリは同じところを一晩中飛んでいた。)http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/9218d78bddf9f12a9d7bdc8ebec1c10a


下記の救助記録では
20時40分
(1時間44分経過) 航空自衛隊・百里基地の航空救難隊のヘリコプターKV- 107機(バートル)が現場上空到着。
21時06分 朝日新聞社の取材ヘリが現場の炎を確認。このとき炎の上で 超低空飛行をしている捜索ヘリも見ている。これについては1995年になって米海兵隊救難チームのヘリであことが判明した。






http://ascensionnote.blog.shinobi.jp/Entry/36/

今からお伝えするのは、後に「JAL123便 米軍幻の救出劇」と呼ばれるものです。


PM18:56のJAL123便の墜落直後、米軍C-130輸送機が横田基地に帰投中に墜落現場付近を飛行していました。

同機のマイケル・アントヌッチ航法士は、横田基地からJAL123便の探索命令を受けたので、一帯を捜索した結果、PM19:19頃にJAL123便の墜落現場を確認しています。

「あたりはちょうど夕暮れだったが、地面はまだ見える明るさだった。山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。」


同機は墜落現場の上空を旋回飛行し、急いで位置を測定、横田基地に知らせています。

続いてPM20:30、現場から60キロ離れた米陸軍座間基地から米軍ヘリUH-1を現場に無線誘導しています。

飛来した米軍ヘリは、PM21:05、乗員2人を生存者救出の為、現場から15mの付近までロープで降下させました。



その時です。当初の指令とはうって変わって横田基地からいきなり「直ちに基地に帰還せよ」という命令が入ったのです。


もちろん、意味の理解できない米軍ヘリは「救助続行を希望」。


これに対して横田基地の司令官は「日本側の救助隊が向かっている。繰り返す直ちに基地に帰還せよ」と命じたのです。


基地からのいきなりの帰還命令に当初困惑したクルー達でしたが、PM9:20最初の日本の救難機が到着、現場を旋回しているのを確認後、安心して米軍ヘリとC-130輸送機は各基地に帰還しました。


しかし、翌日のニュースをみてマイケル・アントヌッチ氏らC-130輸送機のクルー達は愕然とします。なんと一晩たったにも関わらず墜落現場での救助活動は愚か、墜落現場も特定できていないと報じているのです。


さらに不可解だったのは昨日横田基地で待っていたのは、第316戦術航空団のジョエル・シルズ大佐の言動。

シルズ大佐はC-130輸送機のクルー達が現場から戻ると、「ご苦労。しかし、このことは一切マスコミには話してはいけない」といい、その上、丁寧なことにクルー達を現場から引き離すように、翌日からの沖縄出張という異例の処置を命じました。


マイケル・アントヌッチ氏は、一連の事件を後に以下のように振り返っています。

何故、事件のことについて話してはいけなかったのか?

あの飛行機事故のことは、10年経った今も脳裏に焼き付いて離れない。
JAL123便が管制塔【緊急】を告げたときたまたま近くを飛んでいた。現場はすぐに確認できた。墜落の2時間後には、米軍の救助ヘリが現場に着いた。

あの時、ストップがかからなければ、もっとたくさんの人が助かっていたに違いない。

日本の救援隊が現場に着いたのはその14時間も経ってからというではないか。」 
            
『週刊文春』1995年9月28日号より。




救助活動の記録
http://74.125.153.132/search?q=cache:m-eF2kVWI5QJ:www.geocities.jp/at_mocha/ja123/ja123.htm+%E6%97%A5%E8%88%AA%E6%A9%9F+%E5%A2%9C%E8%90%BD+%E6%B6%88%E9%98%B2%E5%9B%A3%E6%95%91%E5%8A%A9%E8%A8%98%E9%8C%B2&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

離陸から墜落まで】
18時12分  羽田を離陸
18時25分 日本航空123便が緊急事態の発生を告げた。以降、懸命の 操縦が行われる。
18時56分
(墜落推定時刻)  東京ACC(運輸省航空交通管制部)のレーダーから123便の機影消える。


【空からの第1次現場確認】
19時20分
(機影消滅より24分後)  埼玉県・入間の航空自衛隊中央救難調整所(RCC)を経 て、米軍輸送機C130からの連絡が、防衛庁空幕に入った。ま た、その1分後19時21分には茨城県・百里基地を緊急発進していたF4ファントム戦闘機、2機が現場上空に到着した。やはり米軍機同様、タカンによる現 場位置の報告をした。いずれも長野、群馬、埼玉の3県境付近(御巣鷹の尾根もここにある)で炎を確認したものであった。


【政府関係機関が動き出す】
20時16分
(1時間20分経過) 藤波官房長官が首相公邸に入り、軽井沢より戻った首相と事 故の対応策について協議し政府対策本部の設置を決めた。


【空からの第2次現場確認】
20時40分
(1時間44分経過) 航空自衛隊・百里基地の航空救難隊のヘリコプターKV- 107機(バートル)が現場上空到着。
21時06分 朝日新聞社の取材ヘリが現場の炎を確認。このとき炎の上で 超低空飛行をしている捜索ヘリも見ている。これについては1995年になって米海兵隊救難チームのヘリであことが判明した。


【地上での公的現場確認情報】
21時39分
(2時間43分経過) 埼玉・長野の両県警のパトカーが三国峠から西北西の方向に赤い炎を確認する。


【第1回自衛隊情報】
21時59分
(3時間3分経過) 自衛隊空幕から運輸省運用課に現場の位置が「長野県 北相木村御座山北斜面」との連絡が入り捜索隊の多くがこの方向に向かった。


【政府の動き】
22時30分
(3時間34分経過) 政府対策本部が設置される。本部長、山下運輸相。副 本部長は2人の官房副長官と運輸省の政務、事務両次官。本部員に内閣審議室長、厚生省社会局長、運輸省航空局長(代理)、警察 庁警備局長、総務庁交通安全対策室長、防衛庁防衛局長、自治省消 防庁長官。(以上のほか、この対策本部には放射性物質やウラン搭載のため科学技術庁原子力安全局長、国土庁防災局長も呼ばれていた)
23時00分
(4時間4分経過) 首相官邸で政府対策本部の第1回会合が開かれる。


【自衛隊情報を否定する公的情報】
23時30分
(4時間34分経過) 長野県警は御座山の捜索結果から「現場は群馬県内と判断し ている」との見解を発表する。


【第2回自衛隊情報】
午前2時すぎ
(約6時間後) 防衛庁が「長野県南相木村御座山南斜面、頂上から1キロ」の情報を流した。


【空からの第3次現場確認により「現場確定」】
午前4時39分
(9時間43分経過)

  航空自衛隊救難ヘリKVー107が群馬県上野村の御巣鷹山 近くの尾根に激突している日航機の残骸を発見。
午前5時37分 長野県警のヘリも現場を確認する。


【救助隊が現場到着】
午前8時49分
(13時間53分経過) 陸上自衛隊第1空挺団の部隊がヘリから現場への降下を始める。
午前9時25分    長野県警のレスキュー隊員が現場から 2~3キロ下流の沢に午前7時55分にヘリから降下し、徒歩により水平尾翼の落下現場に到着する。
午前9時30分 上野村消防団の救助隊も現場到着
午前10時15分 群馬県警機動隊も到着。    
午前10時54分 生存者発見

◇それぞれの時刻の出典へ 





http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85
日本航空123便墜落事故
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捜索エリアは群馬県と長野県の県境付近と設定され、19時45分に運輸省(2009年現在の国土交通省)に捜索本部が設置され、捜索が開始された。そして20時30分、関係機関は山火事が確認された長野県南佐久郡近郊を123便の正式な墜落地点とした。
複雑な地形、険しい山地、日暮れの時間帯という悪条件が重なり、更に県境だったため管轄面のことから、一部の新聞社などのヘリコプターや自衛隊機では墜落現場を確認できたが、正確な場所の特定にはなお時間がかかった。救助も当時のヘリコプターの装備・仕様では、夜間における接近は困難であったために、地上からの救出に全力を挙げることとされたレスキュー隊が墜落現場に向けて動き出したのはあくる13日午前4時前だった。大半は徒歩で現場まで向かい、付近は険しい地形だったため墜落現場に到着したのは事故から14時間ほど経った13日午前8時半であった。捜索開始当初、墜落現場は長野県側ではないかという憶測が飛び交ったこと、防衛庁(現・防衛省)の発表やNHKによる「墜落現場」の報道が二転三転したうえ、悪戯や誤報に惑わされ、各機関が独自の憶測で行動し、連携がとれずおおよその位置しか掴めなかったことも現場の発見を遅らせた。また、123便が輸送していた医療用放射性同位体や、一部動翼のマスバランスに使われていた劣化ウランなどによる周辺への放射能汚染の警戒も、到着が遅れた一因となった。
このため、現場に一番早く到着したのは日の出とともに登った地元の消防団であった。

御巣鷹山日航機墜落事故で救助が遅れた理由


なぜ日航機の救助活動が遅れたのか?

日航ジャンボ機が墜落直後は多くの人が生きていたらしい。
ところが救助活動の遅れで助かる人も助からなかった。
墜落地点の場所の特定に時間がかかったということが主な理由であったが、
もう一つ放射姓物質が漏洩している恐れがあったので、墜落地点に近寄れなかったらしい。

この放射姓物質の漏洩の恐れは、本当にあったのか?
墜落現場にだれも近寄らせたくなくて、嘘か大げさな情報をわざと流したのか?

またもし放射姓物質の漏洩で現場に近寄れなかったとしたら、そんな危険な物質を積み込ませた日本航空の責任はなかったのだろうか。
遺族なら、日本航空を訴えてしかるべきだと思うが、その放射姓物質を積載したために救助活動が遅れ、多くの人が死亡したのだから。
ただそもそも放射姓物質が積まれていたことを、マスコミを含め関係者は知っていたのだろうか?
(「この情報は必要なところ以外流すな」という注意書きが救助関係者に伝えられていた様子。)
また日本航空社内では公表すべきかどうかの議論がされたが科学技術庁の意向により公表を控えることになったという。

ただ前日のブログで紹介されていたM氏によれば、そんな放射脳漏れの情報を知っていたにもかかわらず、百人近い自衛隊らしき人が事故直後から、深夜にかけて活動していた。
それが事実なら放射姓物質の漏洩は他の人間を現場に近寄らせないために、嘘もしくは大げさな情報を流しただけなのかもしれない、
でもそうなると日本アイソトープ協会も絡んでいることになり、巨大な陰謀が見えてしまう。



http://74.125.153.132/search?q=cache:m-eF2kVWI5QJ:www.geocities.jp/at_mocha/ja123/ja123.htm+%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A%E5%8C%96%E5%AD%A6%E9%98%B2%E8%AD%B7%E9%9A%8A%E3%80%80%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F%E5%A2%9C%E8%90%BD&cd=9&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

もう一つの事故とは
 事故機は離陸に先立ち、日航の東京空港支店航務部と通常の交信を交わ していた。その中に、17時37分航務部から123便への、次のような連絡も含まれていた。
「はい、えー、それから123、危険品の搭載がございます。RRWとRRY、locationは貨物のほうからお聞き下さい。」
ここにあるRRWとRRYは航空業界で使用されているコードで、いずれも放射性物質をさし、RRWは第1類白、RRYは第2類黄・第3類黄と危険度別に分 類されている。
墜落からおよそ1時間半後の20時すぎ、日航からではなく日本アイソトープ協会から事故機にラジオアイソトープ72個が積まれていることが警察庁に届け出 された。一部報道機関によれば、後日の調査の結果わかったとされているが、日本航空幹部によれば事故機の部品としてウランが使われていることも事故直後に 当局に伝えたという。科学技術庁も当初からウランについては承知していたと話している。これ以後、科学技術庁原子力安全局では明け方まで協議が続けられた ようだ。
 事故後5時間以上たち、日付が13日になり『放射性物質事故対策会議』が設置された。この『対策会議』は前年に放射性物質輸送に関係する各省庁で構成さ れた連絡会で、放射性物質の事故の時、様々なことに対応するため設置することが決められていた。その初めての活動だったが、その存在や活動は、ほとんど知 られていない。
 13日0時55分、災害派遣の出動要請があった陸上自衛隊東部方面総監部に陸幕からラジオアイソトープの第1報が入った。内容は、医療用アイソトープ 71本を積んでいるというだけで、詳しい内容や人体への影響はわからなかった。さらに「この情報は必要なところ以外流すな」という注意書きつきだった。こ のラジオアイソトープ搭載の情報は現地の第12師団に伝えられ、この時点で陸上自衛隊東部方面総監部ではジャンボ機の位置がわからないことに加えラジオア イソトープの危険性のためとして隊員の夜間投入は断念し、本格的な捜索は夜明時としたということでした。さらに、大宮の化学防護隊に応援を依頼した。
 ラジオアイソトープについての連絡を受けた第12師団では、捜索にあたっている自衛隊員にたいして「現場付近に到着しても、別命あるまで現場には立入る な」という命令が出された。
 事故機に搭載の放射性物質が救援活動に支障無しの判断がなされたのは、緊急事態発生から10時間25分後の、翌13日午前4時50分だった。
 事故現場の黒煙を前にしながら、陸上自衛隊松本連隊の捜索隊は「別命あるまで現場には立入るな」という命令の解除指令が届かず、現場到着が遅れるという 事態も起こっていた。
 9時前に空挺団がヘリから現場への降下を始めたあと、はじめて自衛隊では放射能測定を行った。このころ消防ルートでもラジオアイソトープの取り扱い上の 注意が流され始めた。
 事故から2日たった14日(火)日本ラジオアイソトープ協会の職員が現地で放射性物質の回収にあたった。
 また、この日の午前9時から事故調査委員会の要請をうけた日航職員が現場入りをした。
 最初の現場は水平尾翼の落下しているところだった。このとき同時にウラン重りの捜索もしていたそうだ。
 事故から3日たった15日(木)、初めて科学技術庁の職員が現地に入り調査をした。



放射性物質が救援活動に支障無しの公表は
事故発生から10時間後
だった
 事故機に搭載の放射性物質が救援活動に支障無しの判断がなされるま で、ないしは公表するまで10時間近くもかかったのは、なぜだろうか。 積み荷のラジオアイソトープなどの放射性物質で毒性の強いものがあり、その毒性の 減少に時間を要するものがあったからだろうか。
 事故後、現場の地表面で最大3ミリレントゲン/時の放射能があり、現場の土は自然界の数十倍に放射能汚染していることが明らかになっている。しかし、こ の値は、ある程度時間がたったときの測定であり、事故直後では、もっと高い測定値であったことがうかがえる。
 あるいは、部品のウランや放射性物質の救助隊への影響がどのようなものか、判断しきれないでいたのか。いずれにせよ時間がかかっている。
 放射性物質輸送事故時対策会議や原子力安全局で何がどのように検討され、「救助活動に支障無し」の発表に至ったかの詳細は、わからないが、現場は、積み 荷の放射性物質の全量が漏れ、ウランの全量が燃え、現場は、相当量の放射能汚染に見舞われているという最悪の場合も十分考えられる状態だった。そして、そ の汚染の状態がどの程度かを知るには、まず放射能測定用の資機材を用意しそれを現場に運び、専門家を現地に派遣し、防護服を着て、放射能の測定をする必要 があったと思われる。しかし、それは、実際に実施されたかどうかいまのところわからない。
 
 事故対策会議は「一、極めて少量である 二、長時間身体に密着しないかぎり人体への影響はほとんどない 三、事故で四散、蒸発したとみられる」として 「救助活動に支障無し」の発表をした。現場が「確定」した13日午前4時39分の11分後の発表だった。もはや事故機を前にして救助隊を待機させておくわ けには行かないということだったのか。
 放射性物質輸送中の事故の場合、複雑な要素が重なり合い被曝による二次三次災害もあるなど、その対策に注意を必要となるが今回の事故で飛散したラジオア イソトープなどの取り扱い上の注意が流されたのは、早くとも、ヘリから自衛隊員が現場へロープで降り立った8時頃で、現場へ向かう救助隊や報道関係者に正 確に伝わったかどうかはわからない。
 さらに、事故機にウラン重りが使われていて、これがなくなっていたことが明らかになったのは8日経った8月20日だった。しかも、新聞のスクープだっ た。日本航空社内では公表すべきかどうかの議論がされたが科学技術庁の意向により公表を控えることになったという。この間、事故現場にはウランの存在を知 らされぬまま、救助隊・事故関係者・取材、報道関係者など何千という人々が足を踏み入れていた。



以上から二つの仮説が考えられる。一つは、救助の遅れの原因は、事故 機に搭載の放射性物の放射能が弱まるのを待っていたからだということで、早くから現場に飛来し救助のため地上に降りようとしていた米軍が突然撤退した原因 も、日米のテリトリーや面子が理由のように扱われているが、実はこの放射性物の存在が理由ではないだろうか。
 いずれにせよタカンや、レーダー、航空機による現場位置は正確に事故現場を示しているのに、いざそれを地図上に落とす段になりいずれも大きくずれてしま うのは考えにくく、何らかの意図が隠されていたのかもしれない。二度の長野情報の原因が解明されれば、また、事故対策会議の内容が明らかになればすべてが はっきりする。

御巣鷹山日本航空123便墜落事故の現場にいた人々が語る!

24年立った今月になって、御巣鷹山日本航空墜落事故の現場にいた人の話がネット上に流れてきています。
真偽の確認はできませんが、リアリティのある内容から真実であると推測。
事故後明け方に自衛隊らしき人が大勢いたにもかかわらず、すぐに発見されるような場所での生存者が一人もいなかった。
助けられた4人は飛行機の破片の中に埋もれていたため、発見が遅れました。救助された4人は発見の遅れが幸いして、生き残ることができたのではないか。




http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/9218d78bddf9f12a9d7bdc8ebec1c10a

2009年9月10日■事故現場を訪れた最初の民間人、M氏の証言

なお、事故から24年経ってなぜ今頃こんな証言が飛び出してきたのかについては、事故後にM氏が長期に渡って海外赴任していたこと、最近まで大病を患っていたことなど、公の場で証言を行える状況になかったことを、本人に代わりお伝えしておきます。

それでは、お約束とおり、1985年の8月12日から翌日の8月13日にかけて、JAL123便の事故現場となった御巣鷹の尾根に向かった、M氏の証言をご紹介します。なお、この証言は、本年6月、当ブログ管理者が講師を務めた小グループのセミナーにM氏をお招きし、その席上で証言いただいたものを筆録・編集したものです。発言主旨に誤りはないと思いますが、予めお断りしておきます。

-----------------------------(ここから)-------------------------------
司会:それでは、Mさんよろしくお願いします。Mさんは事故当夜、現場に向かわれたそうですが、まず、そのいきさつを教えてください。


M氏[1]:私の実家は、事故現場から見て西側、長野県の方にあります。当時は大学を卒業して社会人になったばかりで、事故当日はお盆ということもあり、たまたま実家に帰省していました。

事故の速報を知ったのが、12日夕方の7時過ぎ頃だったと思います。その時は墜落現場は(長野県の)北相木村付近という報道でした。そこで、北相木村やもっと南に位置する川上村に住む知り合いに電話を掛けて様子を尋ねたところ、どちらも墜落は確認できてないとのことなので、残るは南相木村の山間部しかないと思い、そちらに向かいました。たまたま高校時代の友人2名と一緒だったので、事故現場に行ってみようということになりました。まだ、若かったですから、その時はただ、何としても現場に1番乗りしてやるぞ、インタビューされてテレビに映ってやるぞ、ぐらいの本当に軽い気持ちしかありませんでした。

オフロードバイクにまたがり、友人2人(それぞれオフロードとオンロードバイクを使用)と共に南相木村に向けて出発し、おそらく21時頃までには南相木村からの林道に入っていたと思います。ただし、オンロードバイクの友人は途中でこの行程から抜け、林道から先を進んだのは、オフロードにのったボクたち2人だけです。

司会:その時刻はまだ、墜落地点は判明してませんでしたよね(公式発表は翌朝5時以降)。そこからどこに進めばよいか、どう判断したのですか?


M氏[2]:そんなの訳ないですよ。上空で戦闘機が、それもおそらく2機がぐるぐる旋回している音がしてましたから、墜落現場はその(旋回)音の中心付近だなとすぐに分かりました。そこで、バイクで可能な限り近くの林道を進んで、そこから先は徒歩で山に入ることにしました。

司会:ええっ?じゃぁもうその時点で墜落地点はわかっていたと・・・

M氏[3]:はい。当然、警察も分かっていたはずですよ。だってボクたちが南相木村へ向かってるその後ろから、警察の白バイもついてきましたから。でも、普通のバイクなので切返しの多い山道に難渋していて、オフロードに乗ったボクたちは簡単に振り切っちゃいましたけど(笑)。

林道の終点から山に入ってからは、途中、山の頂きへ登る度に、ヘリの音がする方向を探して、墜落地点を確認しました。ヘリは同じところを一晩中飛んでいたので、墜落地点は当然分かっているものと思いました。

司会:すると、林道から先は、徒歩で夜の山に分け入ったのですか。危険だと思わなかったのですか?

M氏[4]:あの辺の山の持ち主(の息子)とか知ってますし、一緒に山に入って遊んでましたから、どんなところかは大体わかっていました。松の木と岩が多い所なんですよ。もちろん、急峻で険しい所だとも知ってますから、この先へ進むのは中々たいへんだなと思いましたよ。

とにかく、墜落現場に向かってまっすぐ進むことしか考えていませんから、きつい傾斜や時にはオーバーハングを超えて、山道なんか関係なく、強引にいくつも尾根を跨いで行きました。ですから、直線距離でわずか7,8キロの行程なのに、山に入ってから現場に着くまで6~7時間くらいかかりました。着いたのは、午前4時前後だったはずです。

司会:午前4時という時刻はどうやって確認したのですか?

M氏[5]:当時は、時計を身に付ける習慣はなかったのですか、着いた時に山の尾根付近が白み始めていたので、おそらくそれぐらいの時間だと思いました。
(管理者註:夏の山頂付近は明るくなるのが早い)

司会:そこで何を見ましたか?

M氏[6]:既に自衛隊員が7~80人、いや100人位は来ていました。それを見て、自分たちは一番乗りできなかったと思いましたね。同時に、事故犠牲者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのがはっきりと聴こえました。

司会:ええっ?その時に生きて声を出している人が居たのですか!!どれくらいの人が生きていたのでしょう?

M氏[7]:全部を数えた訳ではありませんが、声の響き方からすると少なくても4~50人は居たと思います。実際に、苦しそうに声をあげている人を私も間近で何人か見ています。自衛隊の人たちがいる以上、自分たちができることは、負傷者のいる場所を教え、早く救助してもらうことだと思い、呻き声のするあたりを探しては、その場所を隊員さんに伝え、早い手当を頼んでいました。

ただ、隊員さんの対応には不信感を覚えましたね。「へたに動かすと危険なので、後から来る部隊が手当することになっている」と言うだけで、何もしようとしない。手にした4~50cm 位の丸いバッグに、地面から拾った物を黙々と入れ続けている。

司会:自衛隊員は何を拾っていたのでしょう?

M氏[8]:まだ暗くてよく見えなかったので、それが何かまではわかりませんでした。ボイスレコーダーとか、何か貴重な物なんだろうと思っていました。私が覚えている隊員さんの装備は、バッグの他に、片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴はつま先の短い短靴を履いており、傾斜のきついこの山のことをよく調べて入っているなと思いました。

ちょっとひどいなと思ったのは、斜面を登り、尾根の反対側に出たら、向こうの谷ではヘリコプターがホバリングしているじゃないですか、ヘリが来ているならさっさと救助しろよと思いましたね。しかも、ヘリの下では、さっき隊員さんたちが何かを入れていたバックを10数個まとめ、ネットに入れて吊り上げていました。何度も吊り上げていたので、全部で70個くらいのバッグが回収されたと思います

司会:現場にはどれくらい滞在したのですか?

M氏[9]:到着してから1時間後くらいに、自衛隊の次の部隊が続々と到着してきました。また、暗視スコープを装着していた最初の部隊も引き上げる体制に移っていたので、もうこれで大丈夫と思い、この時に下山を始めました。なお、次の部隊は、山で歩きにくいブーツ姿だったので、これでちゃんと歩けるのかな?と思いました。

セミナー参加者からの質問

Q1:4~50人居たという、呻き声の人たちはどうなってしまったのでしょう?

M氏[10]:それはボクもずっと不思議に思っていたのですが、下山を開始する朝の5時過ぎ頃には、谷の呻き声がピタリと止んでいました。


Q2:この事故の生存者は4人の女性でしたが、その他にも助かりそうな人はいませんでしたか?

M氏[11]:ボクが見た負傷者の中に、指先が1本ちぎれただけの男の人がいました。「この程度なら死ぬことはないな」と思い、救助活動(隊員への声かけ)を後回しにしたのをはっきりと覚えています。あの人がどうなったのか、ボクにも分かりません。

Q3:事故調査委員会が、当夜、墜落場所発見が困難だったと報告しています。しかし、Mさんは夜を徹して現場に到達している。この報告をどう思いますか。

M氏[12]:日頃から遭難者の多い現地周辺にはCB無線による救助網が敷かれています。無線機を持った人員を担当箇所に登らせて無線を交わせば、夜間に炎上しているような目立つものなら訳なく見つけ出せるはず。どうしてこんなに時間がかかったのか分かりません。
(管理者註:というか、本当はとっくに見つけ出していますが・・)


Q4:大型アーミーナイフは何に使われていたのでしょう?

M氏[13]:それは見ていないので分かりません。

Q5:現場で身の危険を感じたり、二人を排除するような動きはありませんでしたか?

M氏[14]:そういうことは特に感じませんでした。

Q6:機体が激しく衝突し炎上した墜落現場に木立が残っているのは不自然だとよく指摘されるのですが、実際に見てどうでしたか?

M氏[15]:言われてみたら、確かに変ですよね。林立している木の間に機体の破片や、遺体(の一部が)飛散していましたから。それに、あの辺りは針葉樹が多い山ですから、機体から火が出たらあっという間に周囲に燃え広がるはず。それにしちゃ、あまり燃えてなかったなぁ、変だなぁ。

Q7:事故調査委員会が、生存者4人の発見を奇跡的だと報告しています。しかし、Mさんは生きてきる何10人もの声を聞いている。この報告について改めて感想を聞かせてください。

M氏[16]:報告は嘘だと思います。明らかにもっと多くの方の命を救うことができたはずです。

Q8:その他、現場で見て、何か変だと思ったことを教えてください。

M氏[17]:山で遭難して遺体になると、狐や狸など、山の動物にひどく食い荒らされるのですが、現場で見た遺体には、奴らが手をつけた痕跡がまるでない、それは山を知る者としてはたいへん不思議な事です。

司会:ありがとうございました。

-----------------------------(ここまで)-------------------------------


以上、M氏の証言でした。この証言からわかることを、以下箇条書きにします。

・13日午前4時、公式発表ではまだ発見されていないはずの墜落現場に
 自衛隊員が既に100名程度来ていた
・自衛隊員は人命救助よりも何かの回収を優先していた
・4~50名の生存者の声が聴こえた
・1時間後には生存者の声が全く聴こえなくなった


私は、この証言についてはなるべく想像を逞しくしないようにしてます。たいへん恐ろしい想像をしてしまうからです。しかし、M氏の証言を詳しく検証することにより、この事故の謎を解く新たな事実が浮かび上がります。それについては次回に説明を譲りましょう。




墜落現場で救助に携わった人?
http://74.125.153.132/search?q=cache:Qfju6C-oqDUJ:www2.azaq.net/bbs/08531576/+%E7%BE%8E%E8%B0%B7%E5%B3%B6%E6%A7%98%E3%81%8CNHK%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9&cd=3&hl=ja&ct=clnk&gl=jp



キノコ雲は二つ 投稿者:小海線 投稿日:2009/09/20(Sun) 09:01:48 No.15701 [返信]
 余りエンジン音が聞こえなく、高度は稜線スレスレ300メートル位のジャンボ機を目撃した。ジャンボ旅客機だと一目で分かったが、垂直尾翼が欠けていたかどうかは分からなく窓は見えなく、乗客の姿も見えなかった。とにかくでっかい飛行機だとのインパクトが強かった。埼玉方面の山の向こう側から来て、風に流されたように翼がフラフラと上下に定まらないで、はためく感じで上空を半分右旋回した後、三国山の向こう奥に墜ちて行きこの間20~30秒の出来事だった。
 三国山の奥の方向から煙が上がったのを見た。右の端っこの方に白い煙があって真ん中が大きめの黒い煙、キノコ雲だった。この二つの煙の場所は今から思えば少し離れていたかも知れない。キノコ雲は結構な時間立っていて帰って来てからもまだ煙は立っていた。
 ボーンあるいは、ドーンという遠くからの音が聞こえた。ドーンと微かな遠い音とピカッと光り白い煙のキノコ雲が上がり、その左横からもう一つ黒い煙がキノコ雲のように立ち昇った。黒いキノコ雲の方が大きく白いキノコ雲はその右横から上がっていて、その二つの煙の場所は少し離れていて煙は10~20分位立っていた。空がオレンジ色に染まっていた。





投稿者:小海線 投稿日:2009/09/21(Mon) 11:34:03 No.15705 [返信]
 スゲノ沢では呼び掛けるといっても機体の瓦礫だらけだった。今から思えば川上慶子さんが脚を動かし、上の瓦礫が少しずつ空間に落ち込み、表面に出ている余り大きくないお盆くらいの瓦礫が少しずつ下がり、「これはおかしいぞ」ということになった。幾人かがそこをずっと見ているうちにまたその場所が下がった。いずれにしてもそこに誰かいるぞということになり、とにかく行って見ようとわれわれが歩き始め9メートルくらい歩いて行った時に瓦礫の奥から手が出た。その手は吉崎博子さんの手だった。「ソラッ」と上野村消防分団員全員がダーッと寄って行った。
 吉崎美紀子さんは斜面に脚の方がちょっと高くなっている状態だった。吉崎博子・美紀子さん母娘がいた後ろは土が土間状で、川上慶子さんと落合由美さんは機体の瓦礫の中に埋もれていた。吉崎博子さんに呼び掛けをしたら応答はあった。「助けてください」という身振りで身体中が腫れ機体のグラスファイバー等で凄い埃を被り、服もズタズタだった。吉崎美紀子さんは黙っていて顔色も悪くもうまったくグッタリし、応答もなかったので上の仮設ヘリポートまで上げるまでに駄目になるかと思うほどだった。
 生存者4名はすべて3メートル以内の三角形範囲内にいたわけだが、川上慶子さんを瓦礫の中から救出している時に、落合由美さんの手が瓦礫から出て自分はそこへ行ってその手を「もう大丈夫だよ」と言って握ってやった。ところが瓦礫が入り組んでいて、なかなか取り除けなかったが落合由美さんは確かに生きていて、落合由美さんに自分が「今、順番に瓦礫を取り除かないと出せないのでもう少し我慢するように」と言った。
 川上慶子さんは幾人かで瓦礫を捲り、その時は自衛官も来たし長野県警レスキュー隊員も飛び込んで来た。川上慶子さんの上半身はまだ見えず横に寝た感じで下半身が腰から上に上がっている格好で、脚をバタバタ動かしたのだろう。自分はレスキュー隊員と川上慶子さんの脚を持ったが、脚は随分とあちこち切れて怪我をしていた。自分が川上慶子さんに「脚の他にどこか痛い所はある?」とか「もし痛い所があったら脚を動かしてみて」と言ったらそれなりに川上慶子さんは脚を動かした。とにかく川上慶子さんは短パンで日焼けして真っ黒だったので、最初男の子だろうということになり早速無線で「男の子が入った」と連絡した。その後瓦礫から引っ張り出した川上慶子さんの顔はどっちかといえば男っぽい顔をしていて、出した時も女かな男かなという感じだった。「女の子?」と聞いたら「ウン」と言っていた。


投稿日:2009/09/22(Tue) 13:29:15 No.15714 [返信]
 現場の機体残骸の重なりの2、3メートル下から落合由美さんの手だけが出ていた。消防団のしゃべり声がしたので落合由美さんは手を動かし、後から来た者が「オイ、手が動いているぞ」と見つけたのだ。それから夢中で救出活動を行った。スゲノ沢には五体満足遺体が200くらいあり、まるで生きているような遺体もあった。
 急斜面だったので担架を前で担ぐ人は担架を下げ、後ろの人は担架を肩の高さ以上に持ち上げなければならず上の仮設ヘリポートまで生存者を上げるのに1時間半か2時間は掛かり昼過ぎとなった。
 落合由美さんは死んでいたようなもので、生きているかどうか分からない瀕死状態でグッタリしていた。吉崎博子さん・美紀子さん母娘も生きているようには見えなかった。吉崎博子さんの顔色は悪くてどす黒く土色で顔に怪我をしていて、まるでお岩さんのような顔だった。吉崎美紀子さんは口を利ける状態ではなく危篤状態だった。
 川上慶子さんを担架で上げて途中急斜面で道もないから一旦担架を下ろして休憩を取った時に、川上慶子さんが眼をパッチリ開けて空を見ていたので「もう大丈夫だから、眼瞑ってしばらく休みな」と言ったらこっくりと頷き眼を瞑ってスウーッ、スウーッと寝出した。
安心して。



[15740] 顔色の良い遺体があった 投稿者:小海線 投稿日:2009/09/26(Sat) 09:42:15 No.15740 [返信]
 現場に行った時、遺体が割りとしっかりしていたので、もしかしたら夜の間はもっと生存者がいたのではないかとの気は自分もそうだが、他の人もしたのではないか。五体満足でしっかりした遺体は100体位いて、焼けている状態ではなかった。まるで生きているような感じの遺体もあった。
 自分の役割は遺体を集める仕事で、まだ生暖かさが残る遺体はなかったが、顔色も良く若干生きているような感じの遺体もないわけではなかった。遺体は冷たくなっていて、ほとんど青白く身体から血が抜けている感じがし、硬直していた遺体が多く外見は怪我がなく綺麗でした。
 自分たちが行ったスゲノ沢の遺体は飛行機の墜落にしては、しっかりとした遺体と千切れてしまった遺体とが混ざっていたが、しっかりとした遺体は120体~130体はあった。200体まではいかない
 生存者がいる上に右主翼があり、主翼の上に乗って救助に当たった。消防団の掛け声、しゃべり声が聞こえたので生存者が覆い被さっている右主翼を下から動かし、近寄って行ってそこに生存者がいると分かったのだ。そうでなければ生存者がいた方に、まだ入らなかったので分からなかった。
 8月12日午後8時過ぎ、夕立よりは酷くはないが20分~30分小雨が降った。当日夜、熱気みたいな暑さを感じた。



http://74.125.153.132/search?q=cache:7gYM3jsoOfcJ:blog.goo.ne.jp/ni836000/e/a6d3bea30e039e4e811d886074252be9+%C6%FC%B9%D2%B5%A1+%C0%EE%BE%E5%B7%C4%BB%D2&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
川上慶子さん、あの日航機墜落事故からこの夏で22年。


その後、生存者達の証言から明らかになっていったのが、墜落直後にはかなりの人が生存していたという事実。”その時”の話を小田さんも慶子さんから聞いたという。

「墜落した時は、大分多くの人が生きてはって、御父さんも咲子ちゃん(妹)も未だ生きてて、御話しててね。あっちでもこっちでも、がやがやと話し声が聞こえて来て・・・。」

「(残骸から)抜け出そうとして動くと足が痛くなる。そう言うたら御父さんは動かん様になった。段々動かなく、物を言わない様になった。咲子ちゃんも吐いた物が喉に詰まる様な感じになる。『御婆ちゃんと、又皆で元気に仲良く暮らそうな。』と言って上げたけど、げえげえと言い出したと思ったら静かになって、咲子ちゃんも死んだみたいや・・・。廻りで皆が話してはった声も、段々聞こえなくなって・・・。

事故から10年後に元米国軍人が証言した話に拠ると、なかなか現場を特定出来なかった自衛隊や警察を尻目に、在日米軍のヘリは逸早く現場を特定していたという。日本のレスキュー隊が現場に到着する約12時間前には、在日米軍のヘリが既に現場に到着していたものの、「日本側が現場に向っているので帰還せよ。」という上官の指示で現場には降りなかったのだとか。(在日米軍による誤爆で、123便は撃墜されたという説も在る。)確かに、慶子さんもその事を語っている。


(暗闇の中)ヘリコプターの音が聞こえて来て、赤い明かりも見えて、真上迄来て止まってホバリングみたいにして・・・。『ああーこれで助かるわ。』って皆で言ってたら、ヘリは引き返した。『これで場所が判ったから、又皆で沢山来て助けてくれる。』と話したけど、それきりで来ん様になった。その内、皆話さなくなった・・・。」





http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-ochiai.htm
生存者の一人・落合由美さんの証言

目には砂がいっぱい入っていて、とくに左の目が飛び出してしまったように、とても熱く感じました。失明するだろうな、と思っていました。これはあとで知らされたのですが、左右どちらかわかりませんが、コンタクト・レンズがどこかへ飛んでしまったのか、なくなっていました。すぐに目の前に何かあるんですが、ぼやーっとしか見えません。灰色っぽい、夕方の感じなのです。耳にも砂が入っていたので、周囲の物音もはっきりとは聞こえていなかったのではないかと思います。

 呼吸は苦しいというよりも、ただ、はあはあ、とするだけです。死んでいく直前なのだ、とぼんやり思っていました。ぐったりして、そのとき考えたのは、早く楽になりたいな、ということです。死んだほうがましだな、思って、私は舌を強く噛みました。苦しみたくない、という一心でした。しかし、痛くて、強くは噛めないのです。

 墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。
 「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。
 次に気がついたときは、あたりはもう暗くなっていました。どのくらい時間がたったのか、わかりません。すぐ目の前に座席の背とかテーブルのような陰がぼんやり見えます。私は座ったまま、いろんなものより一段低いところに埋まっているような状態でした。左の顔と頬のあたりに、たぶんとなりに座っていたKさんだと思いますが、寄りかかるように触っているのを感じました。すでに息はしていません。冷たくなっていました。

 シート・ベルトはしたままだったので、それがだんだんくいこんできて、苦しかった。右手を使って、ベルトをはずしました。動かせたのは右手でけです。頭の上の隙間は、右手が自由に出せる程度でしたから、そんなに小さくはなかったと思います。右手を顔の前に伸ばして、何か固いものがあったたので、どかそうと思って、押してみたのですが、動く気配もありません。それを避けて、さらに手を伸ばしたら、やはり椅子にならぶようにして、三人くらいの方の頭に触れました。パーマをかけた長めの髪でしたから、女性だったのでしょう。冷たくなっている感じでしたが、怖さは全然ありません。

 どこからか、若い女の人の声で、「早くきて」と言っているのがはっきり聞こえました。あたりには荒い息遣いで「はあはあ」といっているのがわかりました。まだ何人もの息遣いです。

 それからまた、どれほどの時間が過ぎたのかわかりません。意識がときどき薄れたようになるのです。寒くはありません。体はむしろ熱く感じていました。私はときどき頭の上の隙間から右手を伸ばして、冷たい空気にあたりました。

 突然、男の子の声がしました。「ようし、ぼくはがんばるぞ」と、男の子は言いました。学校へあがったかどうかの男の子の声で、それははっきり聞こえました。しかし、さっき「おかあさーん」と言った男の子と同じ少年なのかどうか、判断はつきません。
 私はただぐったりしたまま、荒い息遣いや、どこからともなく聞こえてくる声を聞いているしかできませんでした。もう機械の匂いはしません。私自身が出血している感じもなかったし、血の匂いも感じませんでした。吐いたりもしませんでした。

 やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」「だれか来て」と、声も出したと思います。ああ、帰って行く・・・・・。
 このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした。

 体は熱く、また右手を伸ばして冷たい風にあたりながら、真暗ななかで、私はぼんやり考えていました。私がこのまま死んだら主人はかわいそうだな、などと。父のことも考えました。母親が三年前に亡くなっているのですが、そのあとで私が死んだら、とても不幸だ、と。母は私がスチュワーデスになったとき、「もしものことがあったときは、スチュワーデスは一番最後に逃げることになっているんでしょ。そんなこと、あなたに勤まるの?」と、いくらかあきれた口調で言っていたものです。それからまた、どうして墜落したんだろう、ということも考えました。時間がもう一度もどってくれないかなあ、そうすれば今度は失敗しないで、もっとうまくできるのに。いろんなことが次々と頭に浮かびました。

 涙は出ません。全然流しませんでした。墜落のあのすごい感じは、もうだれにもさせたくないな。そんなことも考えていました。そして、また意識が薄れていきました。

 気がつくと、あたりはあかるかった。物音は何も聞こえません。まったく静かになっていました。生きているのは私だけかな、と思いました。でも、声を出してみたんです。「がんばりましょう」という言葉が自然と出てきました。返事はありません。「はあはあ」いう荒い息遣いも、もう聞こえませんでした。
 あとで吉崎さん母子や川上慶子ちゃんが助かったと聞きましたが、このときにはその気配を感じませんでした。たぶん、それから私は眠ったのだと思います。

 風をすごく感じたのです。木の屑やワラのようなものが、バーッと飛んできて、顔にあたるのを感じました。はっと気がついたら、ヘリコプターの音がすぐそばで聞こえる。何も見えません。でも、あかるい光が目の前にあふれていました。朝の光ではなくて、もっとあかるい光です。
 すぐ近くで「手を振ってくれ」だったか「手をあげてくれ」という声が聞こえたのです。だれかを救出している声なのか、呼びかけている声なのか、わかりません。私は右手を伸ばして、振りました。「もういい、もういい」「すぐ行くから」と言われました。

 そのすぐあとで、私は意識を失ったようです。朦朧としながら、ああ、助かったな、助かったんだ、とぼんやり考えていました。どうやって埋まったなかから救出されたのか、どうやって運ばれたのか、まったく覚えていません。
 体の痛みも、空腹も感じませんでした。ただ、喉が渇いたのを覚えています。カラカラでした。お水が飲みたい、お水が飲みたい、と言っていたというのですが、私は記憶していないのです。応急処置をしてくれた前橋の日赤病院の婦長さんが、あとで「あのときは打ちどころがわるかったらりするといけないから、あげられなかったのよ」といわれましたが、水を飲みたいと言ったことはまったく覚えていないのです。

 目を開けたら、病院でした。お医者さんから「ここはどこだか、わかりますか」と聞かれて、奇妙な返事をしました。「はい、二、三回きたことがあります」って。そんな馬鹿な、と自分では思っているのですが、わかっていながら、そんなふうに答えていました。頭がおかしいんです。でも、電話番号は正確に答えていました。「ここは群馬県だよ」とお医者さんは言いました。どうして群馬県にいるんだろう、と思いました。それで、あ、あのとき飛行機が落ちて、そこからきっと群馬県が近いんだな、とだんだん考えるようになりました。

民主党政権になったら、14兆円の予算が出てきた!

テレビ番組での驚くべき発言。
財務省があっさりと提出した資料ということは、裏にはもっと多くの予算が余っている可能性があるのかも?

財務省が提出した公的な資料
国家予算で使えきれずに、あまった予算が
平成18年度で12兆8350億円
平成19年度で13兆1485億円
平成20年度で約14兆円

三宅氏、自民党、公明党も唖然。

09252.jpg

YOUTUBE動画
http://www.youtube.com/watch?v=U7L0QDSK0vM#t=4m15s



http://wp0.oh-maria.com/%E4%BA%88%E7%AE%97%E3%81%AF%E3%81%93%E3%82%93%E3%81%AA%E3%81%AB%E4%BD%99%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%80%80%E3%80%8C%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%81%9F%E3%81%91%E3%81%97%E3%81%AEtv%E3%82%BF%E3%83%83-737

阿川佐和子:
なんで自民党はできなかったの?

三宅久之:
(民主党に対して)
高齢者医療費一割負担、障害者自立支援法一割負担、消費税4年間は上げません、国債も増発しません。といってるが、
年金問題は長妻さんが大臣になって、国民はすぐにでも解決するんじゃないかと思う。

歳出はあれもやりませんこれもやりません。
節約ですべて賄えるんですという夢のような話をして国民に失望を与えることになりませんか?

川内博史:(フリップを出し)
無駄遣いをし放題して、天下りをし放題して、それでも使えずに予算が余りました。(=不用額)が、

18年度
12兆8350億円

19年度
13兆1485億円

20年度
14兆円

福岡政行:それ(フリップを指す)誰が作ったの?

川内:財務省です。

福岡:(憤慨して)財務省が平気でそういうこと言うわけ?
よくそんなナメたこというねぇ~。

川内:予算を使い切るために必死になって色々やるんだと、みんなそう思い込まされてるんです。

しかし、霞ヶ関は全部たて割りだから、各課のあまった予算をトータルするとこんなに余っているんですよ。

大竹まこと:
12兆、13兆もあればさっき三宅さんがいったことなんか全部賄えちゃうじゃない。

川内:
だから我々は予算の組み換えで・・・。

阿川:その資料いつ出てきたの?

川内:今年の予算委員会の時に作ってもらいました。

阿川:なんで今まで出てこなかったの?

平沢:なんで今まで言わなかったんだ?

川内:今まで何回も言ってるけど誰も取り上げてくれないんです。

~~~~~~~~~~~~

「誰も取り上げてくれないんです」
じゃなくて、そんな大事なこと事件を起こしてでも世論に訴えろよ。


TVタックルを見た人の投稿

TVタックルの動画拝見しました。
無駄を無くせばかなりの国家予算が捻出出来るのだろうとは思っていましたが、逆にこれほどまでお金が余っているとは…びっくりでした。
個人的には、このお金、第1に死に際におられる生活困窮者に供出すべきかと思いました。
くろ

私も見させて戴きました。
「節約で賄えるなんて夢のような話しておいて国民に失望を与えることになりませんか」などと、統一自民の民主叩き常套句を駆使して攻撃する。
そこで川内氏が予算の根拠を提示すると、不満顔を露わにするも反論出来ず沈黙。


水戸黄門の印籠みたいで痛快だったねw。川内氏good job(^-')b。それにしても、自民側糞コメンテーターばっ かりだな・・

特別会計の不用額10兆円が毎年発生する埋蔵金で活用可能だと断 じていますが、不用額はあくまでも予算上の概念(支出権限の使い 残し)で、利用可能なキャッシュではありません。それを誤解して いるのか、分かっていてあえて虚構を書いているのかわかりません が、~~現行のディスクロージャーシステムに欠陥があるとの疑念 を抱かざるをえません。

予算の使い方に過激なムダがある証明になる、いい話じゃないか。 単純なハナシ、前年度の予算で今期も予算を組んだら10兆の余裕 があるってことだろ?

とりあえず、マニフェストは遂行可能ということで。

こいつら大丈夫か、財務省のホームページ見て見
歳出の不用額とともに歳入の減で同額の金額がある
税収が減ったから支出も減らしたてことじゃん。
日本の未来は暗い闇が・・・・・・・・・・





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