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御巣鷹山日本航空123便墜落事故の現場にいた人々が語る!
2009/09/27 21:31

24年立った今月になって、御巣鷹山日本航空墜落事故の現場にいた人の話がネット上に流れてきています。
真偽の確認はできませんが、リアリティのある内容から真実であると推測。
事故後明け方に自衛隊らしき人が大勢いたにもかかわらず、すぐに発見されるような場所での生存者が一人もいなかった。
助けられた4人は飛行機の破片の中に埋もれていたため、発見が遅れました。救助された4人は発見の遅れが幸いして、生き残ることができたのではないか。




http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/9218d78bddf9f12a9d7bdc8ebec1c10a

2009年9月10日■事故現場を訪れた最初の民間人、M氏の証言

なお、事故から24年経ってなぜ今頃こんな証言が飛び出してきたのかについては、事故後にM氏が長期に渡って海外赴任していたこと、最近まで大病を患っていたことなど、公の場で証言を行える状況になかったことを、本人に代わりお伝えしておきます。

それでは、お約束とおり、1985年の8月12日から翌日の8月13日にかけて、JAL123便の事故現場となった御巣鷹の尾根に向かった、M氏の証言をご紹介します。なお、この証言は、本年6月、当ブログ管理者が講師を務めた小グループのセミナーにM氏をお招きし、その席上で証言いただいたものを筆録・編集したものです。発言主旨に誤りはないと思いますが、予めお断りしておきます。

-----------------------------(ここから)-------------------------------
司会:それでは、Mさんよろしくお願いします。Mさんは事故当夜、現場に向かわれたそうですが、まず、そのいきさつを教えてください。


M氏[1]:私の実家は、事故現場から見て西側、長野県の方にあります。当時は大学を卒業して社会人になったばかりで、事故当日はお盆ということもあり、たまたま実家に帰省していました。

事故の速報を知ったのが、12日夕方の7時過ぎ頃だったと思います。その時は墜落現場は(長野県の)北相木村付近という報道でした。そこで、北相木村やもっと南に位置する川上村に住む知り合いに電話を掛けて様子を尋ねたところ、どちらも墜落は確認できてないとのことなので、残るは南相木村の山間部しかないと思い、そちらに向かいました。たまたま高校時代の友人2名と一緒だったので、事故現場に行ってみようということになりました。まだ、若かったですから、その時はただ、何としても現場に1番乗りしてやるぞ、インタビューされてテレビに映ってやるぞ、ぐらいの本当に軽い気持ちしかありませんでした。

オフロードバイクにまたがり、友人2人(それぞれオフロードとオンロードバイクを使用)と共に南相木村に向けて出発し、おそらく21時頃までには南相木村からの林道に入っていたと思います。ただし、オンロードバイクの友人は途中でこの行程から抜け、林道から先を進んだのは、オフロードにのったボクたち2人だけです。

司会:その時刻はまだ、墜落地点は判明してませんでしたよね(公式発表は翌朝5時以降)。そこからどこに進めばよいか、どう判断したのですか?


M氏[2]:そんなの訳ないですよ。上空で戦闘機が、それもおそらく2機がぐるぐる旋回している音がしてましたから、墜落現場はその(旋回)音の中心付近だなとすぐに分かりました。そこで、バイクで可能な限り近くの林道を進んで、そこから先は徒歩で山に入ることにしました。

司会:ええっ?じゃぁもうその時点で墜落地点はわかっていたと・・・

M氏[3]:はい。当然、警察も分かっていたはずですよ。だってボクたちが南相木村へ向かってるその後ろから、警察の白バイもついてきましたから。でも、普通のバイクなので切返しの多い山道に難渋していて、オフロードに乗ったボクたちは簡単に振り切っちゃいましたけど(笑)。

林道の終点から山に入ってからは、途中、山の頂きへ登る度に、ヘリの音がする方向を探して、墜落地点を確認しました。ヘリは同じところを一晩中飛んでいたので、墜落地点は当然分かっているものと思いました。

司会:すると、林道から先は、徒歩で夜の山に分け入ったのですか。危険だと思わなかったのですか?

M氏[4]:あの辺の山の持ち主(の息子)とか知ってますし、一緒に山に入って遊んでましたから、どんなところかは大体わかっていました。松の木と岩が多い所なんですよ。もちろん、急峻で険しい所だとも知ってますから、この先へ進むのは中々たいへんだなと思いましたよ。

とにかく、墜落現場に向かってまっすぐ進むことしか考えていませんから、きつい傾斜や時にはオーバーハングを超えて、山道なんか関係なく、強引にいくつも尾根を跨いで行きました。ですから、直線距離でわずか7,8キロの行程なのに、山に入ってから現場に着くまで6〜7時間くらいかかりました。着いたのは、午前4時前後だったはずです。

司会:午前4時という時刻はどうやって確認したのですか?

M氏[5]:当時は、時計を身に付ける習慣はなかったのですか、着いた時に山の尾根付近が白み始めていたので、おそらくそれぐらいの時間だと思いました。
(管理者註:夏の山頂付近は明るくなるのが早い)

司会:そこで何を見ましたか?

M氏[6]:既に自衛隊員が7〜80人、いや100人位は来ていました。それを見て、自分たちは一番乗りできなかったと思いましたね。同時に、事故犠牲者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのがはっきりと聴こえました。

司会:ええっ?その時に生きて声を出している人が居たのですか!!どれくらいの人が生きていたのでしょう?

M氏[7]:全部を数えた訳ではありませんが、声の響き方からすると少なくても4〜50人は居たと思います。実際に、苦しそうに声をあげている人を私も間近で何人か見ています。自衛隊の人たちがいる以上、自分たちができることは、負傷者のいる場所を教え、早く救助してもらうことだと思い、呻き声のするあたりを探しては、その場所を隊員さんに伝え、早い手当を頼んでいました。

ただ、隊員さんの対応には不信感を覚えましたね。「へたに動かすと危険なので、後から来る部隊が手当することになっている」と言うだけで、何もしようとしない。手にした4〜50cm 位の丸いバッグに、地面から拾った物を黙々と入れ続けている。

司会:自衛隊員は何を拾っていたのでしょう?

M氏[8]:まだ暗くてよく見えなかったので、それが何かまではわかりませんでした。ボイスレコーダーとか、何か貴重な物なんだろうと思っていました。私が覚えている隊員さんの装備は、バッグの他に、片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴はつま先の短い短靴を履いており、傾斜のきついこの山のことをよく調べて入っているなと思いました。

ちょっとひどいなと思ったのは、斜面を登り、尾根の反対側に出たら、向こうの谷ではヘリコプターがホバリングしているじゃないですか、ヘリが来ているならさっさと救助しろよと思いましたね。しかも、ヘリの下では、さっき隊員さんたちが何かを入れていたバックを10数個まとめ、ネットに入れて吊り上げていました。何度も吊り上げていたので、全部で70個くらいのバッグが回収されたと思います

司会:現場にはどれくらい滞在したのですか?

M氏[9]:到着してから1時間後くらいに、自衛隊の次の部隊が続々と到着してきました。また、暗視スコープを装着していた最初の部隊も引き上げる体制に移っていたので、もうこれで大丈夫と思い、この時に下山を始めました。なお、次の部隊は、山で歩きにくいブーツ姿だったので、これでちゃんと歩けるのかな?と思いました。

セミナー参加者からの質問

Q1:4〜50人居たという、呻き声の人たちはどうなってしまったのでしょう?

M氏[10]:それはボクもずっと不思議に思っていたのですが、下山を開始する朝の5時過ぎ頃には、谷の呻き声がピタリと止んでいました。


Q2:この事故の生存者は4人の女性でしたが、その他にも助かりそうな人はいませんでしたか?

M氏[11]:ボクが見た負傷者の中に、指先が1本ちぎれただけの男の人がいました。「この程度なら死ぬことはないな」と思い、救助活動(隊員への声かけ)を後回しにしたのをはっきりと覚えています。あの人がどうなったのか、ボクにも分かりません。

Q3:事故調査委員会が、当夜、墜落場所発見が困難だったと報告しています。しかし、Mさんは夜を徹して現場に到達している。この報告をどう思いますか。

M氏[12]:日頃から遭難者の多い現地周辺にはCB無線による救助網が敷かれています。無線機を持った人員を担当箇所に登らせて無線を交わせば、夜間に炎上しているような目立つものなら訳なく見つけ出せるはず。どうしてこんなに時間がかかったのか分かりません。
(管理者註:というか、本当はとっくに見つけ出していますが・・)


Q4:大型アーミーナイフは何に使われていたのでしょう?

M氏[13]:それは見ていないので分かりません。

Q5:現場で身の危険を感じたり、二人を排除するような動きはありませんでしたか?

M氏[14]:そういうことは特に感じませんでした。

Q6:機体が激しく衝突し炎上した墜落現場に木立が残っているのは不自然だとよく指摘されるのですが、実際に見てどうでしたか?

M氏[15]:言われてみたら、確かに変ですよね。林立している木の間に機体の破片や、遺体(の一部が)飛散していましたから。それに、あの辺りは針葉樹が多い山ですから、機体から火が出たらあっという間に周囲に燃え広がるはず。それにしちゃ、あまり燃えてなかったなぁ、変だなぁ。

Q7:事故調査委員会が、生存者4人の発見を奇跡的だと報告しています。しかし、Mさんは生きてきる何10人もの声を聞いている。この報告について改めて感想を聞かせてください。

M氏[16]:報告は嘘だと思います。明らかにもっと多くの方の命を救うことができたはずです。

Q8:その他、現場で見て、何か変だと思ったことを教えてください。

M氏[17]:山で遭難して遺体になると、狐や狸など、山の動物にひどく食い荒らされるのですが、現場で見た遺体には、奴らが手をつけた痕跡がまるでない、それは山を知る者としてはたいへん不思議な事です。

司会:ありがとうございました。

-----------------------------(ここまで)-------------------------------


以上、M氏の証言でした。この証言からわかることを、以下箇条書きにします。

・13日午前4時、公式発表ではまだ発見されていないはずの墜落現場に
 自衛隊員が既に100名程度来ていた
・自衛隊員は人命救助よりも何かの回収を優先していた
・4〜50名の生存者の声が聴こえた
・1時間後には生存者の声が全く聴こえなくなった


私は、この証言についてはなるべく想像を逞しくしないようにしてます。たいへん恐ろしい想像をしてしまうからです。しかし、M氏の証言を詳しく検証することにより、この事故の謎を解く新たな事実が浮かび上がります。それについては次回に説明を譲りましょう。




墜落現場で救助に携わった人?
http://74.125.153.132/search?q=cache:Qfju6C-oqDUJ:www2.azaq.net/bbs/08531576/+%E7%BE%8E%E8%B0%B7%E5%B3%B6%E6%A7%98%E3%81%8CNHK%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9&cd=3&hl=ja&ct=clnk&gl=jp



キノコ雲は二つ 投稿者:小海線 投稿日:2009/09/20(Sun) 09:01:48 No.15701 [返信]
 余りエンジン音が聞こえなく、高度は稜線スレスレ300メートル位のジャンボ機を目撃した。ジャンボ旅客機だと一目で分かったが、垂直尾翼が欠けていたかどうかは分からなく窓は見えなく、乗客の姿も見えなかった。とにかくでっかい飛行機だとのインパクトが強かった。埼玉方面の山の向こう側から来て、風に流されたように翼がフラフラと上下に定まらないで、はためく感じで上空を半分右旋回した後、三国山の向こう奥に墜ちて行きこの間20〜30秒の出来事だった。
 三国山の奥の方向から煙が上がったのを見た。右の端っこの方に白い煙があって真ん中が大きめの黒い煙、キノコ雲だった。この二つの煙の場所は今から思えば少し離れていたかも知れない。キノコ雲は結構な時間立っていて帰って来てからもまだ煙は立っていた。
 ボーンあるいは、ドーンという遠くからの音が聞こえた。ドーンと微かな遠い音とピカッと光り白い煙のキノコ雲が上がり、その左横からもう一つ黒い煙がキノコ雲のように立ち昇った。黒いキノコ雲の方が大きく白いキノコ雲はその右横から上がっていて、その二つの煙の場所は少し離れていて煙は10〜20分位立っていた。空がオレンジ色に染まっていた。





投稿者:小海線 投稿日:2009/09/21(Mon) 11:34:03 No.15705 [返信]
 スゲノ沢では呼び掛けるといっても機体の瓦礫だらけだった。今から思えば川上慶子さんが脚を動かし、上の瓦礫が少しずつ空間に落ち込み、表面に出ている余り大きくないお盆くらいの瓦礫が少しずつ下がり、「これはおかしいぞ」ということになった。幾人かがそこをずっと見ているうちにまたその場所が下がった。いずれにしてもそこに誰かいるぞということになり、とにかく行って見ようとわれわれが歩き始め9メートルくらい歩いて行った時に瓦礫の奥から手が出た。その手は吉崎博子さんの手だった。「ソラッ」と上野村消防分団員全員がダーッと寄って行った。
 吉崎美紀子さんは斜面に脚の方がちょっと高くなっている状態だった。吉崎博子・美紀子さん母娘がいた後ろは土が土間状で、川上慶子さんと落合由美さんは機体の瓦礫の中に埋もれていた。吉崎博子さんに呼び掛けをしたら応答はあった。「助けてください」という身振りで身体中が腫れ機体のグラスファイバー等で凄い埃を被り、服もズタズタだった。吉崎美紀子さんは黙っていて顔色も悪くもうまったくグッタリし、応答もなかったので上の仮設ヘリポートまで上げるまでに駄目になるかと思うほどだった。
 生存者4名はすべて3メートル以内の三角形範囲内にいたわけだが、川上慶子さんを瓦礫の中から救出している時に、落合由美さんの手が瓦礫から出て自分はそこへ行ってその手を「もう大丈夫だよ」と言って握ってやった。ところが瓦礫が入り組んでいて、なかなか取り除けなかったが落合由美さんは確かに生きていて、落合由美さんに自分が「今、順番に瓦礫を取り除かないと出せないのでもう少し我慢するように」と言った。
 川上慶子さんは幾人かで瓦礫を捲り、その時は自衛官も来たし長野県警レスキュー隊員も飛び込んで来た。川上慶子さんの上半身はまだ見えず横に寝た感じで下半身が腰から上に上がっている格好で、脚をバタバタ動かしたのだろう。自分はレスキュー隊員と川上慶子さんの脚を持ったが、脚は随分とあちこち切れて怪我をしていた。自分が川上慶子さんに「脚の他にどこか痛い所はある?」とか「もし痛い所があったら脚を動かしてみて」と言ったらそれなりに川上慶子さんは脚を動かした。とにかく川上慶子さんは短パンで日焼けして真っ黒だったので、最初男の子だろうということになり早速無線で「男の子が入った」と連絡した。その後瓦礫から引っ張り出した川上慶子さんの顔はどっちかといえば男っぽい顔をしていて、出した時も女かな男かなという感じだった。「女の子?」と聞いたら「ウン」と言っていた。


投稿日:2009/09/22(Tue) 13:29:15 No.15714 [返信]
 現場の機体残骸の重なりの2、3メートル下から落合由美さんの手だけが出ていた。消防団のしゃべり声がしたので落合由美さんは手を動かし、後から来た者が「オイ、手が動いているぞ」と見つけたのだ。それから夢中で救出活動を行った。スゲノ沢には五体満足遺体が200くらいあり、まるで生きているような遺体もあった。
 急斜面だったので担架を前で担ぐ人は担架を下げ、後ろの人は担架を肩の高さ以上に持ち上げなければならず上の仮設ヘリポートまで生存者を上げるのに1時間半か2時間は掛かり昼過ぎとなった。
 落合由美さんは死んでいたようなもので、生きているかどうか分からない瀕死状態でグッタリしていた。吉崎博子さん・美紀子さん母娘も生きているようには見えなかった。吉崎博子さんの顔色は悪くてどす黒く土色で顔に怪我をしていて、まるでお岩さんのような顔だった。吉崎美紀子さんは口を利ける状態ではなく危篤状態だった。
 川上慶子さんを担架で上げて途中急斜面で道もないから一旦担架を下ろして休憩を取った時に、川上慶子さんが眼をパッチリ開けて空を見ていたので「もう大丈夫だから、眼瞑ってしばらく休みな」と言ったらこっくりと頷き眼を瞑ってスウーッ、スウーッと寝出した。
安心して。



[15740] 顔色の良い遺体があった 投稿者:小海線 投稿日:2009/09/26(Sat) 09:42:15 No.15740 [返信]
 現場に行った時、遺体が割りとしっかりしていたので、もしかしたら夜の間はもっと生存者がいたのではないかとの気は自分もそうだが、他の人もしたのではないか。五体満足でしっかりした遺体は100体位いて、焼けている状態ではなかった。まるで生きているような感じの遺体もあった。
 自分の役割は遺体を集める仕事で、まだ生暖かさが残る遺体はなかったが、顔色も良く若干生きているような感じの遺体もないわけではなかった。遺体は冷たくなっていて、ほとんど青白く身体から血が抜けている感じがし、硬直していた遺体が多く外見は怪我がなく綺麗でした。
 自分たちが行ったスゲノ沢の遺体は飛行機の墜落にしては、しっかりとした遺体と千切れてしまった遺体とが混ざっていたが、しっかりとした遺体は120体〜130体はあった。200体まではいかない
 生存者がいる上に右主翼があり、主翼の上に乗って救助に当たった。消防団の掛け声、しゃべり声が聞こえたので生存者が覆い被さっている右主翼を下から動かし、近寄って行ってそこに生存者がいると分かったのだ。そうでなければ生存者がいた方に、まだ入らなかったので分からなかった。
 8月12日午後8時過ぎ、夕立よりは酷くはないが20分〜30分小雨が降った。当日夜、熱気みたいな暑さを感じた。



http://74.125.153.132/search?q=cache:7gYM3jsoOfcJ:blog.goo.ne.jp/ni836000/e/a6d3bea30e039e4e811d886074252be9+%C6%FC%B9%D2%B5%A1+%C0%EE%BE%E5%B7%C4%BB%D2&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
川上慶子さん、あの日航機墜落事故からこの夏で22年。


その後、生存者達の証言から明らかになっていったのが、墜落直後にはかなりの人が生存していたという事実。”その時”の話を小田さんも慶子さんから聞いたという。

「墜落した時は、大分多くの人が生きてはって、御父さんも咲子ちゃん(妹)も未だ生きてて、御話しててね。あっちでもこっちでも、がやがやと話し声が聞こえて来て・・・。」

「(残骸から)抜け出そうとして動くと足が痛くなる。そう言うたら御父さんは動かん様になった。段々動かなく、物を言わない様になった。咲子ちゃんも吐いた物が喉に詰まる様な感じになる。『御婆ちゃんと、又皆で元気に仲良く暮らそうな。』と言って上げたけど、げえげえと言い出したと思ったら静かになって、咲子ちゃんも死んだみたいや・・・。廻りで皆が話してはった声も、段々聞こえなくなって・・・。

事故から10年後に元米国軍人が証言した話に拠ると、なかなか現場を特定出来なかった自衛隊や警察を尻目に、在日米軍のヘリは逸早く現場を特定していたという。日本のレスキュー隊が現場に到着する約12時間前には、在日米軍のヘリが既に現場に到着していたものの、「日本側が現場に向っているので帰還せよ。」という上官の指示で現場には降りなかったのだとか。(在日米軍による誤爆で、123便は撃墜されたという説も在る。)確かに、慶子さんもその事を語っている。


(暗闇の中)ヘリコプターの音が聞こえて来て、赤い明かりも見えて、真上迄来て止まってホバリングみたいにして・・・。『ああーこれで助かるわ。』って皆で言ってたら、ヘリは引き返した。『これで場所が判ったから、又皆で沢山来て助けてくれる。』と話したけど、それきりで来ん様になった。その内、皆話さなくなった・・・。」





http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-ochiai.htm
生存者の一人・落合由美さんの証言

目には砂がいっぱい入っていて、とくに左の目が飛び出してしまったように、とても熱く感じました。失明するだろうな、と思っていました。これはあとで知らされたのですが、左右どちらかわかりませんが、コンタクト・レンズがどこかへ飛んでしまったのか、なくなっていました。すぐに目の前に何かあるんですが、ぼやーっとしか見えません。灰色っぽい、夕方の感じなのです。耳にも砂が入っていたので、周囲の物音もはっきりとは聞こえていなかったのではないかと思います。

 呼吸は苦しいというよりも、ただ、はあはあ、とするだけです。死んでいく直前なのだ、とぼんやり思っていました。ぐったりして、そのとき考えたのは、早く楽になりたいな、ということです。死んだほうがましだな、思って、私は舌を強く噛みました。苦しみたくない、という一心でした。しかし、痛くて、強くは噛めないのです。

 墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。
 「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。
 次に気がついたときは、あたりはもう暗くなっていました。どのくらい時間がたったのか、わかりません。すぐ目の前に座席の背とかテーブルのような陰がぼんやり見えます。私は座ったまま、いろんなものより一段低いところに埋まっているような状態でした。左の顔と頬のあたりに、たぶんとなりに座っていたKさんだと思いますが、寄りかかるように触っているのを感じました。すでに息はしていません。冷たくなっていました。

 シート・ベルトはしたままだったので、それがだんだんくいこんできて、苦しかった。右手を使って、ベルトをはずしました。動かせたのは右手でけです。頭の上の隙間は、右手が自由に出せる程度でしたから、そんなに小さくはなかったと思います。右手を顔の前に伸ばして、何か固いものがあったたので、どかそうと思って、押してみたのですが、動く気配もありません。それを避けて、さらに手を伸ばしたら、やはり椅子にならぶようにして、三人くらいの方の頭に触れました。パーマをかけた長めの髪でしたから、女性だったのでしょう。冷たくなっている感じでしたが、怖さは全然ありません。

 どこからか、若い女の人の声で、「早くきて」と言っているのがはっきり聞こえました。あたりには荒い息遣いで「はあはあ」といっているのがわかりました。まだ何人もの息遣いです。

 それからまた、どれほどの時間が過ぎたのかわかりません。意識がときどき薄れたようになるのです。寒くはありません。体はむしろ熱く感じていました。私はときどき頭の上の隙間から右手を伸ばして、冷たい空気にあたりました。

 突然、男の子の声がしました。「ようし、ぼくはがんばるぞ」と、男の子は言いました。学校へあがったかどうかの男の子の声で、それははっきり聞こえました。しかし、さっき「おかあさーん」と言った男の子と同じ少年なのかどうか、判断はつきません。
 私はただぐったりしたまま、荒い息遣いや、どこからともなく聞こえてくる声を聞いているしかできませんでした。もう機械の匂いはしません。私自身が出血している感じもなかったし、血の匂いも感じませんでした。吐いたりもしませんでした。

 やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」「だれか来て」と、声も出したと思います。ああ、帰って行く・・・・・。
 このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした。

 体は熱く、また右手を伸ばして冷たい風にあたりながら、真暗ななかで、私はぼんやり考えていました。私がこのまま死んだら主人はかわいそうだな、などと。父のことも考えました。母親が三年前に亡くなっているのですが、そのあとで私が死んだら、とても不幸だ、と。母は私がスチュワーデスになったとき、「もしものことがあったときは、スチュワーデスは一番最後に逃げることになっているんでしょ。そんなこと、あなたに勤まるの?」と、いくらかあきれた口調で言っていたものです。それからまた、どうして墜落したんだろう、ということも考えました。時間がもう一度もどってくれないかなあ、そうすれば今度は失敗しないで、もっとうまくできるのに。いろんなことが次々と頭に浮かびました。

 涙は出ません。全然流しませんでした。墜落のあのすごい感じは、もうだれにもさせたくないな。そんなことも考えていました。そして、また意識が薄れていきました。

 気がつくと、あたりはあかるかった。物音は何も聞こえません。まったく静かになっていました。生きているのは私だけかな、と思いました。でも、声を出してみたんです。「がんばりましょう」という言葉が自然と出てきました。返事はありません。「はあはあ」いう荒い息遣いも、もう聞こえませんでした。
 あとで吉崎さん母子や川上慶子ちゃんが助かったと聞きましたが、このときにはその気配を感じませんでした。たぶん、それから私は眠ったのだと思います。

 風をすごく感じたのです。木の屑やワラのようなものが、バーッと飛んできて、顔にあたるのを感じました。はっと気がついたら、ヘリコプターの音がすぐそばで聞こえる。何も見えません。でも、あかるい光が目の前にあふれていました。朝の光ではなくて、もっとあかるい光です。
 すぐ近くで「手を振ってくれ」だったか「手をあげてくれ」という声が聞こえたのです。だれかを救出している声なのか、呼びかけている声なのか、わかりません。私は右手を伸ばして、振りました。「もういい、もういい」「すぐ行くから」と言われました。

 そのすぐあとで、私は意識を失ったようです。朦朧としながら、ああ、助かったな、助かったんだ、とぼんやり考えていました。どうやって埋まったなかから救出されたのか、どうやって運ばれたのか、まったく覚えていません。
 体の痛みも、空腹も感じませんでした。ただ、喉が渇いたのを覚えています。カラカラでした。お水が飲みたい、お水が飲みたい、と言っていたというのですが、私は記憶していないのです。応急処置をしてくれた前橋の日赤病院の婦長さんが、あとで「あのときは打ちどころがわるかったらりするといけないから、あげられなかったのよ」といわれましたが、水を飲みたいと言ったことはまったく覚えていないのです。

 目を開けたら、病院でした。お医者さんから「ここはどこだか、わかりますか」と聞かれて、奇妙な返事をしました。「はい、二、三回きたことがあります」って。そんな馬鹿な、と自分では思っているのですが、わかっていながら、そんなふうに答えていました。頭がおかしいんです。でも、電話番号は正確に答えていました。「ここは群馬県だよ」とお医者さんは言いました。どうして群馬県にいるんだろう、と思いました。それで、あ、あのとき飛行機が落ちて、そこからきっと群馬県が近いんだな、とだんだん考えるようになりました。

カテゴリ:日航機123便墜落事故

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